「翼ゴメン、実はチョコレートなんだけど……」

上目遣いに恐縮がる陽子。


「あっ、そうだ。陽子バレンタインデーの意味知ってる?」

突然フラれて陽子は戸惑った。


「女の子から大好きな男の子にチョコをあげて愛を告白する日」

違うことは解っていた。
それでも陽子は翼を見つめてそう言ってみた。


「違うよ。それは神戸のマロ何とかと言うチョコレート会社が始めたことだよ」




 「東京じゃメリさんかな?」

陽子は翼の耳元でメリさんの歌を唄い出した。


「本当は知ってるよ。確か戦争で戦地に赴く兵士に結婚式を挙げさせたからバレンタイン牧師が処刑された日だって……」


「実は今日その事実を知ったんだ。だから……」

翼は急に押し黙った。

心配して陽子が覗くと、翼は泣いていた。




 「もし僕にチョコレートを用意していたのなら、それは陽子のお父さんにあげて……僕はこれだけで」

翼はそう言いながら陽子に唇を近付けた。


「翼ダメ! 物見遊山!」

その言葉に翼はハッとして慌てて陽子から離れた。


その仕草が可笑しくて陽子は声を出して笑っていた。

翼は途方にくれた。
あの日のように、キスで防ぐことは出来ない。
でも翼はその一時に安らぎを感じた。

翼と陽子の愛の軌跡は、又一つ積み重ねられていく。




 陽子は翼が西善寺にいた真相を後で知る。

翼は自転車で国道まで迎えに出ていたのだ。
でもそれに気付かずステーションワゴンは直進してしまったのだった。
だから翼はその後を追いかけたのだった。


それは翼の優しさだと思った。

陽子はより深く翼に愛を感じた。


それは奇跡がもたらせた愛の軌跡になっていた。
西善寺の駐車場に戻る時、翼はあの涅槃像に熱心に手を合わせていた。

その姿はまるでお釈迦様にすがる信者のようだった。


でもその時二人は知らずにいた。
明日の二月十五日がお釈迦様の命日、つまり涅槃だと言うことを。


翼はただ祈っていた。
勝の延命を。




 堀内家に戻った陽子は、翼に勝を頼んで忍の勤めている町役場に向かった。
ステーションワゴンを返すためだった。


こんなに職場に近いのに、忍は勝のために常に車で通勤していた。
でも今日は席を外す訳にはいかなかったのだ。