友人として応援に行く踊りの会で彼女を見るのは特別に気分が良かった。自分だけが知っている彼女の強かさを目の当たりにする特権を与えられたその気分の良さ。
でも、ある時、その姿を見守るのは自分だけではないと知った。「友人」になってから一年半、2年くらい経とうとしていた。見知った顔をロビーで見かけたの だった。堂々とした歩き方、背が高いので嫌でも目立つ。いつも自信に満ちて見えた。そうか、そうか・・・。そんな噂を聞いたこともあったけれど。

そうだ、いつだったか、帯揚げを贈ったことがあった。
彼女の誕生日が近い踊りの会のご祝儀に春の色の桜の花びらのような帯揚げを贈った。銀座の有名な小物屋は母がよく使うお店だったので知っていた。一人で店に入ったときの緊張感を今でも思い出すことが出来る。着物を着た中年の女性が物静かにやってきて、棚の小物の配列を直しながらお探し物ですか?と声を掛けて くれた。自分のような男性客にも慣れているのだ、上手に話を聞きだして女性へのプレゼントならこんなものはいかがかと帯揚げの並ぶ棚へと導いてくれたのだった。

色とりどりの帯揚げがグラデーションに並んでいた。どんな色が良いだろう?とすばやく左から右へ棚を見渡し、彼は直ぐに淡いピンク色の段に目を止め、ここだ、と思った。
淡いピンクにも色々なピンクがあった、少しずつ濃くなっていくピンク色、桃色、珊瑚色、紅色、藤色のようなピンク色もあった。柄のついたもの、絵のついたもの、絞りのようなもの・・・。
中に一枚ひときわ綺麗な淡い桜貝のような色合いの帯揚げがあった。静かに目立たないようにじーっとしているように見えた。その帯揚げの佇まいはちょうど、彼女が会社で仕事をしている時の様子とよく似ているような気がした。

静かな、何にも染まる白色の中に秘めた情熱の赤。ただ、その赤は決して表に出てくることがなく、目立たぬように目立たぬように奥の方に潜んでいる。まさに桜貝のように一筋、二筋と入る少し濃い色の桜色も、彼女が時折見せる芯の強さを思わせた。

その桜色の帯揚げを手に取ったとき、なぜだか彼女を抱きしめた瞬間のように、胸がぎゅうっと締め付けられるような思いがした。

十分にその重さを確かめた頃に、お店の女性が物静かに「そちらになさいますか?」と言った。頷いてその帯揚げを渡すと、女性は捧げ持つようにして店の奥へ持っていった。


そこからどのように帰ったのか覚えていない。ただ、彼女の踊りの会の当日、自分の部屋の箪笥の一番上の引き出しに入れておいた包みをそぅっと出して、母から借りた風呂敷に包んだ瞬間の得意な気持ちを昨日のことのように思い出すことが出来た。

楽屋口で彼女の名を口にした時の緊張感。鳴り物や三味線が遠くなっていく廊下、案内してくれる女性の靴。彼女の楽屋の入り口で、鏡越しにこちらに気付いたと きの彼女の衿元を直す仕草。お辞儀をした時の彼女の鬢から香った油の香り。包装紙に包まれた帯揚げの薄い箱を大事そうに持った手が、やはり神妙な手つきだった。
あの、帯揚げ。

絵筆が止まった。
本堂から伸びる参道の左寄りに描かれた灰色の着物を着た女性は、左下を見下ろし 桶を提げて歩いている。彼女の白い首筋と衣紋の肩越しに黄色と紫色の仏花が覗いている。ほんの少し見える草履の裏側は彼女の足の運びまで見えるようだった。彼は満足げにスケッチブックを下ろした。胸につかえた何かが解けた瞬間だった。

自分はいつも諦めてきた訳ではない、そして、諦め切れないものがなかった訳でもない、と初めて思った。この人生で彼は決して絵筆を置き去りにした日はなかった。想いを遂げなかったのではなく、想いを遂げて終わらせてきた。彼のやり方で、彼と彼女のやり方で。そして年を重ねて来たいまこの時でさえ、思い出すことが出来るほどの切なさを味わい、その思い出が今も彼の胸を焦がすのだった。その想いを「情熱」と呼んでもいいはずだ、と彼は思う。