受験勉強にかこつけて会えなくなることが、自分にはどうしようも出来ない運命の渦とかかっこいい言葉で言えばそのようなものの存在を認めた初めてのことだった。今から思えばそんなことで運命とかいう大仰な言葉を使う自分に呆れてしまうくらいだけれど。

大学に入学して、新しい友人も出来て、麻雀をしたり絵を描いたり授業に出たりしているうちに編み下げの彼女のことも、彼女が言った一言も思い出すことが少なくなっていったけれど、すっかり忘れた訳ではなく、時に今自分が美大に行っていたらどうだったろうか、と考えることもあった。

同じ大学の女学生と付き合ったことがあった。文化祭で熱心に絵を見てくれている彼女になんとなく声を掛けたのがきっかけだった。秋から冬、春になって、桜が散り緑が萌えて、柔らかかった木漏れ日が強いシャワーのように降り注ぐようになったころ、彼女が自分と同じサークルの新入部員と仲睦まじそうに構内のカフェテリアにいるところを見かけた。声を掛けるのが躊躇われて急いでもと来た道を引き返したのだけれど、その部員の事を彼女が自分に一言だって話さなかった事がその後ずっと胸に引っかかって、いつものように会うのにどこかぎこちなく、いつからか自然消滅する形で会わなくなっていった。

胸に何かが引っかかる時はいつも絵を描いた。何も考えないで描ける風景画が好きだ。今日のようにひたすら筆を動かして景色を切り取っていく。
彼はバケツに入れた絵筆をユラユラと洗って東屋から見える墓所の方側の景色を眺めた。開祖の像が白い縁石に囲まれて立っているのを彼は丹念に描いていった。ジグソーパズルのピースがはめ込まれていくように切り取った景色が出来上がってきたのを、彼はスケッチブックを少し自分から離すようにして見て手ごたえを感じた。でももう一つ何かが足りない。参道に何か一つ描きたい、と思った。ふと、昨日すれ違った着物の女性を思い出した。


灰色の着物・・・小紋だった、墓所へ向かう彼女の着物の色がどんな風に見えたか、帯、何度も何度も頭の中でフィルムを再生する。体を左側に少し傾げるようにして歩いていた。仏花を持っていて右肩から少し黄色と紫の菊が見えた。その後姿を描きながら、彼は、彼の人生を通りすぎていったもう一人の女性を思い出した。

それほどたくさんの用事を言いつけられるわけではないのに、要領が悪いのかいつも残業していた。ぼんやりと仕事をしているようにも見えないがキリキリとやっている訳でもない。淡々と仕事をしているけれどいつも時間内に終わる事がなかった。いつも微笑みを湛えているような目がいかにも穏やかそうな人だった。髪を後ろに一つに束ねて、富士額が美しかった。定規を持つ時の手が神妙そうなのが彼の目を捉えて離さなかった。

後で、その定規を握る時の彼女の手が扇子や小道具を握る時の手なのだと知った。そういわれてみるといかにも伝統芸能の中に育ったような忍耐強さや芯の強さを持ち合わせたような人であった。

それまでの彼は、または、その後の彼もだけれど、どちらかといえば芯が強いというのとは違う気の強さ、会話や生活態度で目に見えるしっかりした女性にばかり惹かれるようなところがあって、たとえば授業中にわからないことがあれば躊躇なく手を上げて質問するような女性、彼の絵の出来具合、彼の絵に対する情熱、彼の女性達に対する情熱について思うところをすべて言葉にして説明してその言葉が通じているのかどうかも確かめてみるような女性、そんな女性がが多かったのだけれど、唯一その人は彼の絵や彼の絵に対する情熱や彼の思いについて何一つ訊ねようとはしなかった。彼女は彼女自身のことすらも探ろうとは思っていないようだった。

何も訊かれずにいることは、居心地がよいような気もしたし何となく不安な気もした。彼女が自分のことを何も訊かないのは彼女が自分に何の興味もないからなのかもしれないと思ったりした。彼女はただ、そういう人だったのだろうと今なら思うけれど、若かった頃の自分には良く分からない、掴み所のないような人に思えて、そこが魅力的だったのかもしれない。

彼女が他の女性達と違った事がもう一つあった。それは自然消滅ではない終わり方だった。「もう、こんなふうにお逢いすることはありません」と彼女ははっきりとそう言った。はっきりとそう言われて初めて彼女の自分に対する気持ちの中にこれまでは友情以上のものが存在したのだ、あるいは存在しようとしていたのだ、と分かりほっとしたのだ。そんなおかしな話があるだろうか。

「じゃあ、今日この瞬間からは友達として」と握手する手を差し出した時、彼女は爽やかに笑い握手を返してくれた。白い小さな手は思ったよりもずっと力強かった。