親父の13回忌が無事に終わった。寺務所で最後の手続きを終え引き戸を閉めると自然にほぅっと溜息が漏れた。本堂前の参道の中ほどに東屋がある。一服しようと参道へ出た時、一人の女性が仏の花を携えて歩いてくるとふと立ち止まりこちらへ向かって会釈をした。反射的に会釈を返したけれど、彼女はお寺の本尊に向かってお辞儀をしたのだと気付き、気恥ずかしさを誤魔化すようにもそもそと煙草を探す手を大げさに動かした。


とっくに見つかっていた煙草を咥えながら東屋へ向かった。彼岸桜がワサワサと鳴ってスズメが囀りながら頭でっかちなくらいに大きな本堂の屋根から向こうへ飛んでいくのが見えた。東屋の、本堂がよく見える位置に腰を掛けると幼い頃にこの東屋で(それは多分祖父の法要だったと思うが)親戚達で待ち合わせていた時のひとこまをふと思い出したりした。あの頃の親父よりも今の自分の方が年上なのだなと思うと不思議な気がする。煙草を深くのみ込むと、ゆっくりと煙を吐き出しながら小さくなった煙草を携帯灰皿に押し込んだ。

先ほどの女性が桶を提げて墓所に向かって歩いてくるのが見えた。桶が重いのだろうか、体を少し傾げて歩いている。携帯灰皿をズボンのおしりのポケットに入れ東屋を後にした。

東屋の前で、こちらに気付いて歩調を緩めた着物の女性と道を譲り合った。二度、三度、同じ方向へ避けて、こういうときはどうして同じ方向へ避けちゃうのか、この前テレビでやっていたなあと思いながら、ついつい可笑しくなりながら「ごめんなさい」と挨拶をしてすれ違った。

灰色の小紋の着物に、墨で書いたような枝と所々梅の花か桜の花か何か柔らかく日本画のように描かれた白地の塩瀬の染めの帯、その枝に咲いた花と同じように淡い薄紅色の帯揚げと白い帯締めをしていたのを、彼は一瞬に捉えた。

墓所へと向かっていく彼女の後ろ姿を見送りながら、絵になるなあとぼんやり思った。


*    *    *

曲がりなりにも彼にも、絵描きの端くれの血が流れているのだ。その一生、絵を描き続けた母と、家族のために絵筆を捨てた父の。

男子たるもの、どちらが立派なんだろうか。夢を追い続けることと愛するもののために夢を棄てることと。問い続け、問い続けていまだ答えが出ない。

父と母は絵画教室で出会った。母の実家は画家を目指した父との結婚はひどく反対したと言う。父は絵の勉強のために外国に行くお金を貯めていたらしいけれど、結局をそれを母との結婚軍資金に当て、筆を折って、もう二度と絵筆を握る事はなかった。父にとっての二択は夢よりも愛。訊いた事はなかったけれど、本当に迷い無くそうできたのだろうか?

自分も妹も絵を描くことが好きだ。妹は美大を出て美術の先生になった。今も講師として母校へ教えに行っている。自分は美大へは行かなかった。家族のために働く絵筆を二度と持たない画家の背中を見て育ち、絵は趣味でいいと、人生を決めるある時期にそういう結論を出したからだった。でも、それが正しかったのかと、不惑をとうに過ぎてもまだ分からない。おそらくこんな事には答えなどないのだろうと、最近やっとそう思うようになった。


愛のために夢を棄てた父の情熱的な血が自分にも流れているだろうか、と思う事がよくある。ロマンスがなかった訳ではない。会いたくて会いたくて切ない思いをした事もあるし、会えなくて諦めようとして辛い思いをした事も、ある。でもそれは、誰もが通り過ぎるある時期の一過性の熱のようなものではないか。どうしても諦めきれないもの、というのが自分の人生にはどう考えてもなかった、と、そう思わざるをえないのだ。