約2ヶ月前の10月。


優羽が佐渡邸を訪問し、蒼空が病気であることを知った日。


電車の中で優羽は覚悟を決めて帰宅した。


「ただいま母さん。遅くなってごめん。」


リビングでは優羽の母親がソファに座り、仕事の資料を見ていた。


優羽の母親は細身で、ショートの髪はキチッと整えられ、黒のスーツがよく似合うキャリアウーマンだ。


母親は資料を閉じ、優羽を見上げた。


「何処で何をしていたら、こんな時間になるの?」


現在夜の10時前。

今日も仕事を終えて、帰ってきたままの姿の母親はまだ弁護士の顔が抜けておらず、冷徹な雰囲気を漂わせている。


「連絡した通り、体調不良の友人を自宅まで送っていました。」

「それは知っています。何故あなたが送らなくてはいけないのかわからないし、送ったにしては遅すぎます。」


蒼空の家が学園からは遠く、さらに自分の家とは方向が逆であることは伝えていなかった。そんな余裕はなかった。


「すみません。ただ、僕が送って行かなくては他に誰も事情を知る人がいなかったからです。」


これは少し違う。本当は自分自身も事情はのちに教えてもらった。


「どんな事情があるにしろ、先生に任せておけばいいでしょう。あなたには何よりも学習優先してもらわないといけないのよ?わかっているでしょう?」


その言葉に、優羽はカチンときた。

今までも親の言葉に苛立つ時はあった。

しかしこの時の優羽は、これまでとは違っていた。


「…命よりも大切なものはないと思います。」


生まれて初めて、親の意見に反論したのだ。

母親の表情は固まった。

しばらくの沈黙が続いた。

母親がこの後どう言ってくるのが想像ができず、優羽は構えていた。


「そう。あなたは自分の将来の為より、その友人が大切なの?」


母親の質問に、優羽は即答できずに少し考えたが…。

自分の将来と蒼空。天秤にかけることがおかしい。

もちろん、母親は蒼空の事情は知らないが、人の命と息子の将来を比べていることは理解しているだろう。

この人の考え方は間違っている。

今まで、完璧な人生の目標になっていた母親像が、優羽の中で崩れた気がした。


「僕はどちらも大切です。でも、母さんが希望している将来は、僕の目標としている将来とは違う。」


この言葉をずっと心の奥底に封印していた。


「僕は弁護士にはなりたくない。教師になりたいんだ!」


本当に初めて自分の気持ちを口に出した瞬間だった。


「……そう。あなたに夢があるなんて知らなかったわ。」


母親の反応は、予想より冷静だった。


「いいわ、教育大に進路変更しなさい。でも、わかっているわね?変更が遅かったからと言って、合格点で他の受験生に負けることは許しませんよ。」


優羽は母親の発言で呆気にとられた。

それに母親が気が付いたのか、


「なんです、ボケっとして。早く着替えて食事なさい。」


「あ…はい。あの…本当に進路変更してもいいんですか…?」


これまでの母親のことを考えたら、こんなにもすんなり意見を受け入れるのが信じられなかった。


「…教師になりたいのでしょう?別になりたいものがあるのなら反対はしませんよ。お父さんには私から伝えておきます。」


そう言うと、母親は立ち上がりリビングから出て行った。


優羽は肩透かしをくらった気分でソファに座った。


「なんだ…こんな簡単な事だったんだ…」


優羽は背もたれにもたれて顔を上にあげ、ため息をついた。


ずっと親の都合で、弁護士になるための教育をさせられていたつもりだったが、もしかしたら勘違いをしていたのかもしれない。


自分で自分を弁護士の形にくくりつけていたのかもしれないと、優羽は思った。


この日から方向転換し、優羽は本当の将来へ向かい出した。