「あっ…」

思わず、小さく声を出した恵子は、

地下鉄への階段を降りる途中に、健司がいることに気づいた。

健司は、壁にもたれ、じっとこちらの方を見ていた。

足が止まりかけたが、

恵子は、止まる理由がないことに気づき、

階段を降りていく。

もう終電が近いし、戸惑っている余裕もない。

急がず、慌てず、

ゆっくり降りていく恵子を、健司は目で追っていた。

恵子は、健司の前を通る瞬間、軽く頭を下げた。

知らない訳ではない。

だけど、自分はただの観客。

向こうが、覚えてる訳がない。

少し速度を上げようとした、恵子の背中に、

「え…演奏…どうでした?」

緊張した声を、何とかクールに抑えて、健司は声をかけた。

(あたしに気づいていた)

恵子は、足を止め、

思わず振り返った。

だけど、言葉がでなかった。

しばらく…ほんの数秒、

視線を合わせた2人。

「あ…あのお」

突然で、何を言ったらいいかわからなかった。

だから、素直な言葉を。



「曲は、知りませんでしたけど…演奏は、最高でした」