深い黒の二つの瞳に引き込まれた。
目前で穏やかに振られた手は、力強さと、やんわりとした優しさを感じた。
「おーい、見えるか?」
えっと…
「…先生…」
ですよね?、は咄嗟に呑み込んだ。
入学してから、クラスの友達の名前は覚えた。やっと覚えた。
同じような空気を放つ人達の名前を覚えるのは、梨花にとって、かなり面倒だった。
教師の名前まで覚える余裕はなかった。
覚えているのは、特につっこみどころのない平凡な担任と、やたら男子生徒と絡みたがる若い女の副担任くらいだ。
あ、それから、授業が脱線したら止まらない、少し面白い現社の先生も覚えている。
「あ、良かった。気絶はしてないようで。サッカーボールだもんな。痛かっただろう?」
「は…はぁ…。ありがとう…こざいます」
先生は私の頭を優しくポンポンとなでた。
昔、お父さんにこうやってあやされてたな。フッと肩の力が抜けた。
この先生…名前なんだったっけ…。
必死に思い出そうとする。
クラスの女子の誰かが話しているのを何度も聞いたことがある。
[ほんとかっこよかったんだよー!バスケの時もさーぁー♡]
[結婚してないよねーあの人。どうしよう好きになっちゃった…]
[彼女いるのかなぁ…。禁断の恋とか憧れるなぁ♡]
すると、一人の男子が走って来た。
「すいませーーん‼」
先生が思い出したように振り返る。
「おまえなぁ…女のコの可愛い顔にボールぶつけるなんて言語道断だぞー!」
先生が声を張り上げた。
「じゃあな!俺は今からあいつをこらしめてくっから。ちゃんと鼻とか冷やしとけよ」
先生は冗談まじりに笑い、踵を返して駆け出した。
「あっあの!ありがとうございます!!」
自分でも驚くくらい大きな声で先生の背中に叫んでいた。
先生はくるりと回り、私に向ってピースをしてみせた。
思わず笑みがこぼれる。
結局、先生の名前は思い出せなかった。
