海棠さんの『大切な人』とは誰のことだろう。
自分のことだと思い込んでしまうのは自惚れかもしれないし、なによりも怖い。期待すればするほど、裏切られた時の絶望感は大きくなって傷も深くなることを知っているから。
それに、私のために歌ってくれたと思える自信なんてない。
きっと海棠さんにとって、私は過去の中にある小さな点。彼の通ってきた道の傍に落ちている小さな石のようなものだろう。
だって彼は再び歩き始めている。かつての夢を取り戻して、もう一度自分の力で、あの場所で生きていこうとしている。
ここでしか生きられない私とは違う。
最初から、彼とは生きる世界が違っていたんだ。
「やっぱり、東京には何か惹きつけられるものがあるのかなあ……」
海斗がぽつりと言った。
私に言ってるような、単なる独り言のような口調だったから返事して良いものかわからず、私は「うん」と答えるだけ。
海斗もそれ以上の答えを求めてはこない。
麻美に会ってから数日後、海斗に海棠さんのことを話した。動画サイトで海棠さんが歌っているのを、麻美が見つけたと。
海棠さんと連絡が取れていないことは、以前から海斗も知っている。今更連絡するつもりはないと私は言ったのに、海斗は文句たらたら。
仕事帰りの私を待ち伏せて、強引に車の助手席に放り込んだ挙句に車を走らせた。

