それはとても鈍く、黒く、湖面に揺らぐ波紋のように渦を巻いている。



【夕暮れの、修羅】



ふぅ、と短く詰めた息を吐く。
壁一枚を隔てた外界は、沈み始めた陽が道行く人々の影を長く映し出している。

季節は秋…と言っても、それは暦の上でのこと。
体感温度はまだ夏だ。
じっとりと背に浮かぶ汗が、なんとも気に障る。

暑さは苦手だ。
汗と共に、思考力までもがどろどろと流れて行ってしまう気分になる。

「乱…何か、思うところでも?」

あたしにそう問い掛けた男、咲羅は、顔色を探られるのを嫌ってのことなのか、大きなサングラスで目を隠している。
そしていつもヘッドフォンを耳に当て、大音量で『生と死』をテーマにした、ゴシックを思わせる曲を聴いているらしい。(前に自慢げに言っていた)

「今日は聴いてないの?」

トントンと、左手で自分の耳を突く動作をする。

「もう、聴き飽きた」

そんなモノなのか、という言葉がフと浮かんだが、声にしてまで言うほどのことではないだろうと思い、面倒だったのでそのまま沈めた。

沈黙が流れる。

格子がはめられた窓の隙間から入りこんだ生暖かい風が、乱の黒髪を撫でる。
腹が、ざわりと揺らめく。
内に眠る修羅が、身体を蝕んでいく感覚。

「…あたし、は。……本、宮、らん。」

ぽそりと、至極小さな声。
静寂に包まれた空間だからこそ聞こえた声。
普段、人前では気丈に振る舞う乱とは到底思えない声音に、ゆっくりと彼女に視線を向ける。

乱の頬は、夕日を浴び橙色に染まっているのに、どこか青ざめていた。

それですら、色を纏う。


乱は釈迦が作り上げた至高の一級品だね、と、前に二人で酒を呑み交わしたときに冗談混じりに言ったことがある。
確かその時の乱は、一寸驚いた表情をした後、眉間に皺を寄せ、険悪な面持ちになったのだ。

その時はまだ、彼女は褒められるのに慣れていないのだろうか、くらいに思っていたのだが。