「今日は帰り遅くなるよ」


已之吉は見送るおしんにそう言った。

「そう。帰り何時ごろになりそう?」
おしんは洗い物をしていた手を割烹着で拭きながら言った。
「わからない。今日帰ってこれればいいけどね…。大事な取引があってさ」
「だから昨夜は書斎に向かったきりだったんだ。大変ね。」
「仕事だからね…。仕方ないよ。あ、実は明後日休みとったんだ。
どうだい?家族みんなで東京見物にでも行くかい?」

「ホントに!」


おしんの顔はほころんだ。
「農閑期だしね。骨休めに……な?どうだい?おきぬちゃんも誘って…。」
「いいわね!子供たちも家族で出掛けるの始めてだから喜ぶわ。」
おしんは嬉しそうに言った。
「よし。それじゃあ俺も仕事頑張ってくるよ。」

「ええ。行ってらっしゃい」
おしんが已之吉を送ろうと草履を履いた時…已之吉はおしんの前に突然顔を近づけた。


「え、何?」



彼はにやりと笑いおしんの前髪をまくりあげると、
彼女のおでこにキスをした。



「え、えぇええぇー!
な、な、何よ!いきなり!」
おしんの顔は真っ赤に染まった。


「西洋の国ではこれが挨拶なんだってさ。なかなか粋なもんだろ?」
已之吉は少年のような笑顔を見せた。


「やめてよ!もう!なんなのよ!心臓とまると思ったじゃない!!」


おしんは怒って見せたが顔は嬉しそうだ。


「ははっ。ごめんな。じゃあ行ってくる!」



彼は右手を軽く挙げて朝日に照らされた道を歩いていった。

おしんは見えなくなるまで彼を見送った。


「全く…已之吉さんたら…」ひとりごちると、おしんは含み笑いを浮かべた。

空の高い、ある秋の日の
ささやかな出来事だった…。