両手首を軽くぐるぐると回して
柔軟をすると、
静かに鍵盤の上にアーチを形成した。


鍵盤の上を舞い踊る指先。

そして紡がれているのは、
ベートベンの一曲。


ピアノ・ソナタ
第24番嬰ヘ長調
作品78番。

別名はテレーゼ。



規模が小さなソナタ。


第一楽章
アダージョ・カンタービレ・
アレグロ・マ・ノン・トロッポ。


アダージョが告げるのは
愛の籠る呼びかけ。

アレグロが伝えるのは、
微笑みの表情。
 


8分少しのステージを終えると、
今度は俺を椅子へと座らせた。




「楽譜は確か……」



そう言うと、彼は本棚から
古びた楽譜を手にして、
楽譜台にゆっくりとのせた。




合図を受けて、
その音色を追いかけるものの
手応えはなし。



ただ空間の中に、
音が漂うだけだった。





「雪貴、今日はここまで。

 空港で待ち合わせた君の来客が、
 そこで待ってるよ」



そう言うと、伊集院さんは
ドアを開けて、退室していった。




入れ違いに姿を見せたのは、
日本に居るはずの裕先生。