俺自身も初めて、
ここに来て、あの人の演奏を聴いて
体の震えが止まらなかった。




兄貴の曲は……
沢山の人の心に届いてた。




だけど……俺の音は、
誰かを救うことが出来てるのかな?


考えることもなかった思いが
湧き上がる。




レッスン室Cに入って、
インペリアルと向き合う時間。





課題曲をひとしきり演奏した後、
俺は運指運動も兼ねて、
超絶技巧の楽譜を取り出す。





クリーム色の紙の上に
沢山綴られた、おたまじゃくし。


その音、一つ一つには
存在意味があって、
作者の想いが込められている。


そんな僅かな音の変化を読み取りながら、
確実に、その楽譜を俺の音楽へと
進化させていく時間。





何度も何度も腱鞘炎の
痛みを堪えながら、練習を続けていると、
ガチャリと扉が開く音がした。




近づいてきたその人に、
慌てて演奏する手を止めた。





「海外公演お疲れ様でした。
 伊集院さん」


姿を見せたその人は、
伊集院紫音さん。


「ただいま。
 何弾いてたの?」


そう言って、俺の練習していた
楽譜にチラリと視線を向ける。


「超絶……ね」


半ば、うんざりするように
トーンを下げた伊集院さん。


「あの……、
 いけませんか?」

「技術も大切だよ。

 確かに大切だけど、
 表現力も必要だよ」




そう言うと伊集院さんは、
公演帰りで疲れているにも関わらず
俺に椅子から離れるように合図を送ると、
先ほどまで俺が座っていた場所に腰掛ける。