「雪貴、去年演奏した
 ラフマニノフ弾いて」



そう言うと唯ちゃんは
ピアノ講師としての位置にゆっくりと立った。



促されるままにピアノの前に座る。




ラフマニノフ。


正直、今ここであの時のように弾ききるには
練習不足だという事も自覚していた。



真っ白な鍵盤の上に、
指を走らせていく。




何とか弾ききったものの、
思い通りに動ききらなかった指先は、
音を踏みはずし、指が走りきらなかったところは
少しテンポがずれて……結果は散々だった。





俺自身が思った以上に、
指が動いていない現実。






この状態で、俺は留学に行って
ついていけるのか?




そんな不安まで浮かんできた。





鍵盤からため息と一緒に
指をおろす。




「これから毎日、特訓しないとね。
 容赦しないからね。
 雪貴」



そう言うと唯ちゃんの目は、
すでに講師モード全開。



「唯ちゃん。
 はいっ、とりあえず一頁め。
 ここの小節からここまで。
 
 弾いて」



唯ちゃんに言われたことを
すぐに実行できないでいた俺に、
唯ちゃんは告げた。



「雪貴。

 今のままだと留学に行って
 一年間やり遂げるなんて出来ないわよ」



留学……。


「唯ちゃん、俺行ってもいいの?」


思わずつぶやいた言葉に、
唯ちゃんはにっこりと笑った。




「本音で言えば悲しいし、寂しいわよ。
 でも一年だもの。

 一年我慢したら、
 雪貴はまた帰ってくるんだよ。

 伊集院さんに、エルディノさん。
 それにDTVTの惣領でしょ。

 惣領国臣がいるってことは、
 ケンタウロスの
 マエストロ瀧沢深由【たきざわみゆ】

 そんな皆に鍛えられて
 成長できるチャンスなんて、
 摘み取れるわけないじゃない。

 ずっと一緒に居たいって思いだけで
 雪貴の未来を奪う権利なんて私にはないもの。

 理事長室に呼び出されて、
 話を聞いた時から、ずっと覚悟してきた。

 思うことも沢山あったけど、
 私が雪貴の立場だったら、
 そのチャンスは絶対に逃がさない。

 それに隆雪さんだって
 逃がすなって言うと思う。

 だって隆雪さんは、
 脳腫瘍だって告知されてからも
 バンドコンクールに
 Ansyalのメンバーと出場した。

 私にくれたあの曲を持って。
 
 そうやって、
 夢を現実に引き寄せていったんだから。

 雪貴にも後悔しないように、
 夢を現実に引き寄せて欲しいって
 思ったの」


「唯ちゃん……」



ちょっと涙声になった唯ちゃんは、
それを隠すように講師口調に変化していく。




「ほらほらっ。
 出発まで時間は待ってくれないのよ。

 せっかく留学への切符を手にした
 私の優秀な教え子なのに、
 あの頃みたいに弾けませんでしたって言うのは
 洒落にならないわよ。

 出発まで、キッチリと面倒見させて頂きます」



言い切った後は、
鬼講師唯ちゃん降臨。



出発までの毎夜、
今までにない鬼コーチぶりを
発揮した唯ちゃん効果もあって
以前の感覚を取り戻すことが出来た。



Ansyalメンバーへの連絡。
両親への報告。


鬼コーチ唯ちゃんとの、
夜のマンツーマンレッスン。



休む暇がないくらいに、
慌ただしい七月の後半。



終業式の後も、
ずっと日付が変わる頃まで
唯ちゃんの鬼指導は続いた。



夢の中でもピアノを練習してる始末だ。




そんな時間を過ごし続けて迎えた
留学前の最後の夜。





俺は久しぶりに
唯ちゃんと体を重ねた。






翌日、マンションを
出勤途中の唯ちゃんとマンションを出る。



マンション前には託実さん。




「雪貴、空港まで送ってくよ」



そう言って、俺の手荷物を
トランクへと詰め込んでいく。




「唯ちゃん」



そうやって名前を紡いだ唯ちゃんの唇を
そっと奪い取ると、
託実さんの車へと乗り込んだ。