島を出て数年の月日が経っていた。
足を踏み鳴らしても柔らかな土の感触はもうない。アスファルトが地面を覆い緑地帯か街路樹のある所でしかあの感覚は味わえなくなった。
無秩序に乱立する高層ビル群と人の群れに溺れてしまいそうな錯覚に、時々襲われて新鮮な空気を求めて空を仰ぎ見上げた。だけど、スモッグの漂う色褪せた空気しか肺に入ってこない。
 他国からの光化学スモッグに黄砂そして花粉。
島での暮らしが無性に懐かしい。

 街路樹に手を触れて目を閉じるとありありと島の様子が目に浮かんだ。
川のせせらぎ、木の葉ずれの音。鳥の歌声、動物たちの鳴き声や気配。
回想に耽けかけた時、掌から樹木の息吹が体の隅々まで流れこんできた。

ああ、きらきらと儚く輝く優しい深緑のイメージだ。温かい、でも弱々しい。

キメラは目をゆっくりと開き樹木を見上げた。
ひっきりなしに行き交う車に、煽られた枝葉が不規則に揺れている。葉の間から光が漏れてまるで宝石 のように煌めいていた。

「綺麗だ。でも、もうすぐ役目を終える」

その時、公道沿いに黄色い作業車が数台止まり繋ぎの作業着にヘルメット姿の男達が車から降り始めた。
十五、六人居そうだ。彼らは慣れた様子で様々な道具を手に街路樹に取り掛かった。街路樹の下で立ち竦むキメラに一人の作業員が声をかけた。
 
「お嬢さんそこ危ないよ。仕事するからどいてくれ」

「あ、はい。すみません」

人が絶え間なく行き交う歩道に戻り、名残惜しげに街路樹から目を離さない。
 近づく気配もなく唐突に、キメラの傍らには金髪碧眼の中性的な顔立ちの人が立ち並んだ。

「この木々全てを安らかなる地に送るつもりですか?」

キメラは彼を見上げると寂しげに微笑んだ。
細い絹糸のような黄金の髪は地面を這うほど長く豊かで、涙を湛えたかのように潤う瞳は鮮やかなコバルトブルーだ。
血管が浮き出そうなくらい目細やかな白い肌に、ギリシャ彫刻のようなほりの深い顔立ちと中性的な体つき。
その美しすぎる容姿に纏っているのが簡素なチェニックの上から白い一枚布を羽織り体に巻き付けている。教会の壁画や有名絵画で見られる古代ローマ人の民族衣装だ。彼が好んでこの衣装を着ているのでなくキメラの瞳にはこう写っているのだ。
 見る者によって姿形を変えるハート。彼と同じような生き物は他にもいる。闇から出るものと鋼を持つもので、彼女の仕事と深い関わりがあった。
 彼の背中には純白の両翼が揺れていて翼を持つものと彼女たちの間では呼ばれている。

「御魂を引き出す必要はなくなったみたいですね」
「はい」

人間たちの手によって倒されていく街路樹から二人にしか見えない魂の陽炎が立ち上り始めた。
キメラはすかさず両手を合わせ水を掬うような形を作った。

「枯れ果てた骸から彷徨い出でし木霊の魂たちよ。ここに集いわが言葉に耳を傾けよ...」

澄んだ声が辺りに響き渡る。よく通る声は音楽を奏でているような抑揚があり、誰もが惹きつけられるに違いない。しかし、都合によりその声姿さえも人間の捉えることの出来ない存在にもなれる。
生けるものには器と生命を育むための意識的なもの、器を失った時意識的なるものはその器に留まることが出来なくなり器から解放される。その意識をキメラ達の手により「再生」と「廃棄」に区分けされ、翼あるものが「再生」へと導き闇から出ものが「廃棄」へと導かれるのだ。この工程を経て輪廻転生の理が成り立つのである。
意識なるものはキメラ達に「御魂」と呼ばれ、翼あるもの闇から出しものはその御魂を「ファブリック」と言われる都市に送る。
 キメラ達は御魂に直接触れることが出来ないので、鋼を持つものに捉えてもらい審判を下すのだ。
次々と街路樹は倒され御魂が溢れ出す。彼女は焦って言霊を誤った。すかさず翼あるものハートは笑顔を向けると頷いて見せる。

「応援呼ぶべきかな」

呟いたキメラはちらりとハートを盗み見た。
空中に黄金に輝く光に御魂を手際よく導き送り出している。彼の傍らには私立の制服を着た小学生が立っていた。ぽってりとした柔らかそうな頬っぺた。大きな瞳は据えられ御魂を見つめ上品で小さな鼻の下の唇は真一文字に結ばれている。
真黒な髪は前髪と同じ長さに後ろも切りそろえられ襟足までシャギーされている。
冷静で落ち着いた様子の少年は淡々と歩道の脇に置かれていた大きなごみ箱の影に街路樹の御魂を投げ込んでいた。
彼は闇から出もので、キメラにはどうしても小学生に見えるのだ。

「ダークネスを呼ぼう。あいつには骨だけど御魂を留めておく力がある」

いやはや面倒なことだと内心思いつつハートは少し眉根を寄せたが、明るい口調で努めて優しい笑顔をキメラに向けた。余計な心配をさせて仕事に手間取りたくない。この後可愛い小鳥ちゃんたちとデートの約束をしているのに。
キメラは安心して微笑みを返すどころか彼女の視線を彷徨いその口から掠れて異様に高い声が発せられた。明らかに動揺している。

「それが…ダークネスは召喚しても現れないの」

震える声にハートと闇から出ものクルエルティは我が耳を疑った。
 一斉に四つの視線が彼女に注がれる。

「はぁ?!」

二人の声色には非難が色濃く表れ、普段無表情なクルエルティでさえぽかんと口を半開きにして目を見開いている。ハートは金魚のようにぱくぱくと口を開いたり閉じたりした後     あきれた様子で額に手を当てた。

「ありえない」

鋼をもつものダークネス。植物相手だからなめているのか、ハートとクルエルティの脳裏にのんびりビール片手に野球中継を観戦している彼の姿が脳裏に浮かんだ。
ビルの側面に掲げてある巨大なオオロラビジョンがニュースを告げる。
『駒沢公園内にて逃亡していた殺人犯が警官に射殺された模様です。現場から中継が入ります…田所アナウンサー』

「ちょっと~!こんなところに何ぼ~っと突っ立てんのよ。いくら待ってもダークネスはこないわよ。ちょっとはおかしいと思って連絡ぐらいよこしなさいよ」

 声の主は人ごみを強引に掻き分けてキメラ達に走り寄った。
すれ違うたび男達が振り返る。
キメラの前に立った彼女は首を上げ、鼻息荒くまくしたて声を荒らげた。
潤んだ深緑の大きな瞳。桜色のぽわぽわにカールした髪は肩の上で綿菓子のように揺れ、青白くとも思われる肌の頬をわずかに赤みが刺しており、その姿はとても魅力的だった。

「ちょっと聞いてるの?わざわざ走ってきたんだからね!何コレ、まだ仕事終わってないの?」

 彼女の身長は百五十センチ。キメラを見上げた瞳がますます大きく見開き辺りを鋭い視線で見まわした。
キメラは冷や汗をかきながら懸命に弁解した。

「工事の人間たちがやってきて一斉に切り始めたから。仕事が追い付かなくなったの」

 黒いデニムのミニスカートに緑のブリーツチェニックキャミソール、そのうえからモスグリーンのふわふわボレロ・・最新のファッションを纏った彼女に対して、いつもの民族衣装のキメラの姿はこの街で異様に浮いて見えることだろう。
 彼女はキメラの同級生で姉妹のように育ったクーだ。

「とにかく、この仕事は中断!緊急招集かかったからこれから現場に向かうわよ。まったくこれからくイイ男昇天しようって時にいい迷惑だわ。あ、あんた達も向かってね。上の許可はもう貰っているから」

 クーはボアつきのくしゅくしゅブーツのかかとを鳴らし、小さな唇を尖らせた。キメラは心配そうにエメラルドグリーンの御魂とハートたちに目配せする。
クルエルティは小さく肩を竦め右腕を上げると大きな四角い枠を描いた。一瞬で囲われた空間に四角い闇が浮かび上がる。底の見えない深い闇でその部分だけ大きな穴が開いて    るようだ。

「仕方がないな。臨時空間に一時的にこいつらを閉じ込めておくよ。まぁそう長くは持たないが何もしないよりいいだろう。出たとしても悪さはしないだろうしね」

慣れた手つきで街路樹の御魂を誘導し闇の奥へと誘った。その光景は漆黒の闇に吸い込まれる緑の彗星のようだ。

「じゃ、僕はお先に」

軽い調子でハートは言うとウインクしながら金色の輪を潜り姿を消した。その様子を見てクルエルティは鼻を鳴らす。
クーはおもむろにキメラの手首を掴むと

「てか。人を見送ってる場合じゃないの。私らも行くよ」
「わわっ」

 既に二人は舞い上がっていた。眼下の風景がみるみる遠のいていく。
ハタから見たら忽然と二人の女性が消えたかのように見えただろう。
あっという間に翔けあがり空の点となった二人を見上げクルエルティは皮肉めいた笑みを浮かべた。
ビルの谷間を縫うように飛ぶ二人。眼下には絶え間な瞬くネオンと車。そして人。
時刻はもう日暮れに指しかかっておりビルの窓に紅い夕日が時折写る。窓越しに人々がせわしく働き、灯かりが少しずつ燈りより明確に人の姿を見ることが出来た。

「いったい何があったの?どこへ向かっているの?」

不安げな面持ちでクーを見つめるキメラ。風でなびいた髪が彼女の頬を時折叩く。クーの首にかけてあったハートをモチーフにしたシルバーアクセの可愛らしいペンダントが、日の光を浴びて時々輝き、風まかせに右へ左へ、時に上や下へ暴れている。

「駒沢公園よ!」

かなりの速さで飛んでいるため耳元で風の呻きが騒がしい。クーは大きな声で言ったが、あっという間にその声はかき消された。

「何の応援?」

クーは横目でキメラを見ると眉間にしわを寄せた。

「とにかく、行ってみればわかるって!」

 やがて眼下に東京医療センターの十階建ての白い建物が見えてきた。A棟、B棟、外来病棟を越え駒沢通りを挟んですぐだ。
東京オリンピックの行われた陸上競技場の煉瓦色のトラックを眺め、中央広場の管制塔を横切り右手にある補助競技場、第二球戯場を越えて軟式野球場の手前にある小さな池のある公園で二人は降りた。
 警察や野次馬でごったがえしており、辺りを警察車両の赤色塔が照らしていた。

「そういえば・・何か事件があったって・・」

  胸騒ぎを覚えるキメラ。クーは柔らかな芝生を踏みしめ歩みを進めながら神妙な面持ちで頷いた。

「そうよ」

 彼女達の向かう先に・・異様な漆黒の靄と鋭い閃光が木々の間から漏れている。
沢山の人々は彼女達に気付く様子もなく遠巻きにこちらを眺めて騒いでいた。
人間の引いた黄色いロープをくぐりキメラたちは信じられない光景を目にした。