「でも、ちょっとやそっとのことでは後戻りできないの、もう……」
それぐらい―――……。
後に続く言葉を思い、また橘の気持ちを慮って、和也は愛おしむように彼女の頭を撫でた。
「見つめるだけだった年月を思えば、あれくらいなんてことないはずだった……それなのに、わたし……」
最後の声が掠れて詰まり、橘はいっそう顔を和也の胸に押し当てる。
その肩が小刻みにふるえていた。
泣いているのだとわかって、和也はうろたえる。
彼女が泣く理由などどこにもないのに。
「うう、橘泣かないでくれぇ……、おまえが泣くと俺まで涙が出てくるからさあ」
俺が全部悪かったんだ。
自分に自信が持てなくて、後押しが欲しくて安易に人に相談したのがいけなかった。
自分があんなに流されやすい性質だったなんて知らなかった。
人の意見を容れてしまったために気の迷いが生じておかしくなった。
もうあとほんの一歩だったのに、その一歩で足踏みをして抜け出せなくなって、それは俺がどうしようもなく不甲斐ないせいで、幼稚なせいで、おまえを苦しめた……。
俺、ほんと、どうかしてた……。
「くやしい……」
「え?」
橘が身じろぎして顔を覘かせ、恨めしげに俺を見上げてくる。
「これくらいで泣くなんて」
言って、橘はまた和也の頬をつねった。
「いててて……」
「……ねぇ、痛かった?」
ビンタのことを言っているのだろう。頬を見つめる双眸に労りが滲む。
「強烈だった」
情けない顔で和也は息をつく。
切なげな眼差しが一転しておびえたように睫毛をふるわせた。
得意の悪魔はなりをひそめて、めずらしく心細げな様子で、腫れ物に触れるみたいに和也の頬に指先を当てる。
いまのところ痛みはないが、明日になれば腫れているかもしれない。
でも、それで目が覚めたと、和也は逆に申し訳ない思いで微笑んだ。

