百合香の手は鴇田の頬に触れる直前で止まり、まるで時を止めたかのようにはっとなって目を開いていた。
鴇田の方はあまり気にならなかったのか、
『これぐらい大丈夫です。さ、琢磨さん、行きますよ』
とそっけなく言い、俺を力強く引っ張る。
鴇田に連行されるように引っ張って行かれ―――何となく百合香が気になり振り向くと
百合香は鴇田の背中をじっと見つめて、鴇田の頬を触れようとしていた手をそっと押さえていた。
子供心に……何となくもやもやと変でイヤぁな気分になった。
あの頃から―――…いや実際はもっと前だったかもしれない。
百合香は龍崎家で鴇田とすれ違ってもあからさまに視線を逸らし、逃げるように立ち去っていく。
一方の鴇田は、百合香に嫌われていることなどまるきり気にしていない様子で
ひたすら俺の教育に情熱を注いでいた。
厄介な情熱だがな。
とにかく、あの二人に関してはそうゆう記憶しかない。
鴇田だって百合香のことを嫌ってはいなかっただろうが、苦手意識は持っていたようで
『翔!あっちの廊下まで競争だ!早く着いたら宿題免除♪』と何が何でも宿題から逃れたかった俺は適当に理由を取り繕ったが
『やめておきます。この時間、お嬢がお琴の稽古にこの廊下を通られます。
俺とすれ違ったら気分を害されるでしょうから』
と、あっさり断られた。結局宿題免除にはならなかった。
鴇田の言った通り、その数分後、百合香は琴の稽古だと言うことで廊下を通って行き、その気配を障子張りの襖越しに確認してから鴇田は廊下を反対方向に出て行った。
単に仲が悪い―――そう思っていた……
だから鴇田が百合香のことを想い出し、彼女の名前にちなんだこの部屋で顔を覆って涙したことに
正直驚いたのだ。



