夏休みの間に、あと2回、菜々は図書室に行った。

 同じ曜日と同じ時間にしたものだから、2回しか行けなかった、が正しいだろう。

 そうしている内に、あっという間に8月は終わりに近づき、二学期が目前となる。

 彼女が図書室へ行くと、返却処理のついでに、彼が新しい本を取り出してくれる。

 太宰治全集も、何とか四巻まで到達し、五巻からは二学期、となる計算だ。

 ただ、菜々には心配事があった。

 二学期の先輩の担当が、何曜日になるのか、まるで分からなかったからだ。

 四巻を彼から受け取りながら、菜々はどう切り出そうか考えていた。

『先輩の担当の時に来たいので、担当教えて下さい』だと、露骨すぎる。

『先輩に本を取ってもらいたいので、担当教えて下さい』だと、彼を便利扱いしているように思われてしまうかもしれない。

 そんな彼女の一瞬の戸惑いの間に。

「ああ」と、先輩がカウンターの下から、クリアファイルを出した。

 そこには、夏休みの部員の担当表が入っているではないか。

 先輩の名前が見られる!?

 まだ、名前ひとつ聞けずにいることが、菜々はずっと気になっていた。

 しかし、不自然でなく聞き出すタイミングが、なかなかつかめずにいたのだ。

 目をかっと見開いて、それを見ようとした時。

 先輩は、あっさりとクリアファイルを裏返しにした。

 見えなかったと、菜々が心の中で「orz」のポーズになりかけた時。

「僕以外の図書部員は女性で、一番上の本を取るのが大変な子たちだから、二学期はよかったら、月・木の昼休みか放課後に来てくれると、僕が手伝えるよ」

 裏返しのファイルの中に、二学期の担当表が入っていることに気づいた。

 しかも今、彼は何と言ったのか。

 名前を探すのに集中すべきか、さっき言ってもらった言葉を反芻すべきか、菜々は迷ってしまった。

 しかし、彼の指が月曜の枠を、トンと指した。

『東』と、そこには書かれていた。

 ヒガシ? アズマ?

 またも、複数の選択肢に、菜々の思考が振り回される。

「あ、ありがとうございます……ええと、ヒ、ヒガシ先輩、で合ってますか?」

 許容量を越えた情報を処理しきれないまま、彼女は思いつくままを口から垂れ流した。

 先輩は、ふっと笑った。

「残念、アズマの方だよ」

「あ、ああ、ごめんなさい、アズマ先輩。アズマ、アズマ……」

 一度聞けば間違えることなどないというのに、菜々は間違った自分が恥ずかしくていたたまれなくなり、何度も彼の名前を繰り返した。

 そんな菜々の様子を、眼鏡の向こうをにこやかに細めて見つめてくれる。

「伊藤さんの名前は、読み間違えがなくていいね」

 図書カードに書かれた彼女の名へ視線を落とし、東(あずま)は、その白い指先で彼女の名前をなぞった。

 あ、いま、死にそう。

 名を呼ばれ、名前をなぞられた菜々は、鼻の奥がツーンとして、冗談抜きで鼻血が出るのではないかと心配したのだった。


 ※


 家に帰って、菜々はベッドで太宰治全集の4巻を開く。

 東先輩が勧めてくれたのは、『千代女』という作品だった。

『女は、やっぱり、駄目なものなのね』

 その始まりに、菜々の胸はどきりとした。

『女のうちでも、私という女ひとりが、だめなのかも知れませんけれども、つくづく私は、自分を駄目だと思います。そう言いながらも、また、心の隅(すみ)で、それでもどこか一ついいところがあるのだと、自分をたのみにしている頑固(がんこ)なものが、根づよく黒く、わだかまって居るような気がして、いよいよ自分が、わからなくなります』

 ここまで読んだ時、菜々はこの作品を書いたのが男性であることを、すっかり忘れて、のめりこんでしまった。

 女性が、女性の生き方をしている間に、一度はぶつかる壁みたいなものが、そこには書き記されていた。

 同じ壁にぶつかっても、男性の反応はきっとこの主人公とは違うだろう。

 自分が弱く駄目な女であると思う気持ちと、いやいや、最悪な女であるとは思いたくない気持ちが、その中にひしめいていたのだ。

 最後の方の、『七年前の天才少女をお見捨てなく』という文章を見た瞬間、菜々の身体に鳥肌が立った。

 小学生の頃の、自分を思い出してしまったのだ。

 長距離では、周囲の誰も、それが男の子でさえ菜々に勝つことは出来なかった。

 年に一度のマラソン大会では、必ず一番で帰って来て、皆に褒められ、うらやましがられたあの頃。

 しかし、菜々は自分が井の中の蛙であることを、すぐに思い知ることとなる。

 マラソンを競技として走るようになり、同じ志を持つ多くの女の子たちに囲まれた時、それは明らかになったのだ。

 菜々は、天才でも何でもなかった。

 同じ年くらいの少女に、どんどん抜かれていく自分を目の当たりにして、しばらく落ち込んでいたことを、この作品は彼女に思い出させてしまった。

「そうだね、伊藤さんには、この作品が面白いんじゃないかな」

 東先輩は、そう言った。

 いつものように、菜々が好きな作品を聞いた時のことだ。

 彼は、好きな作品ではなく、彼女に勧めたい作品を指した。

 菜々は、舞い上がっていたので、その意味を深く考えていなかったが、こうして改めて『千代女』を見ると、少し冷静になってこう考えた。

『女は、やっぱり、駄目なものなのね』

 東先輩は──何故この小説を自分に勧めたのだろうか、と。