入り口の方から人が入ってくるたびに、ドアに取り付けられた鈴が重苦しい音を立てる。この店と同様に年季の入ったそれは、お世辞にも軽やかな音とは言えない。それでも、人が来たことを知らせる役には立っているのだから、無用の長物というわけでもないのだろう。
 鈴くらい、さっさと取り替えたらいいのに、と思わなくもないが、慣れてしまうと、これはこれで味がある気がしてくるから不思議だ。きっと、ここに通う常連は、似たようなことを考えているに違いない。誰かが文句を言っているところは見たことがないし、そもそも、鈴を替えたところで、ここの客層や入りが変わるとも思えない。
 つまり、何も変わらないから放置されているのだろう。
 ここは、まるで時が止まったかのようにレトロな空間だ。
 いつ来ても時が止まっているように思える、寡黙なマスターが一人でやっている、街の小さな喫茶店。駅からはさほど遠くはないが、大通りからは一本入った閑静な場所にあり、通りすがりにふらっと立ち寄ることができるような魅力的な立地ではない。
 年季の入った扉を開ければ、カウンターと、十席にも満たないテーブル席。昔ながらの、とでも付け加えたくなるような外装とその立地も手伝って、客の数は限られている。それでも、それなりに常連客はいる。
 彩だって、それが気に入って通っている一人だった。
 限られた人数しか入らない店は静かで落ち着くし、マスターの淹れるコーヒーの香りが漂う店内はひどく居心地がいい。考えごとがある時や一人になりたい時にはもってこいだし、コーヒーを飲みながらぼんやりとしているのも至福の時だった。
 彩は、この近くにある小さな会社の事務員だ。小さい事務所の性とでも言うべきか、交代でお昼を取るために一人で昼休みを過ごすことも多い彩は、あまり混み合わないこの店が気に入っていた。昼時でもさほど混雑することもないここは、読書や考えごとの邪魔をされることも少ない。店の経営としてそれはどうなのかと思わなくもないが、彩にとっては理想的な環境だ。
 毎日のように通っていれば、おのずと座る席も決まってくる。今日も今日とて昼食を兼ねて店に赴けば、カウンターのいつもの席は、残念ながら先客によって占領されていた。仕方なく、一番奥にあるテーブル席を選ぶ。席数の少ないこの店で、一人客である自分がテーブル席に座ってしまっては、迷惑になりかねないが仕方がない。
 いつもだったら、カウンターを利用していた。
 後から考えれば、ここの席に座ったこと自体が、全ての発端だった。けれど、その時、その席に座らなければ、何事も起きなかったのだと思えば、まさしくそれが発端だったと言えるのだろう。
「おなかすいたな……」
 はあ、と、溜め息をひとつ。
 いつもならもう少し早い時間にお昼に入れるのに、今日はいろいろと立て込んでいて誰もお昼を食べに行く余裕がなかった。ようやく時間が取れた頃には昼休みというにはだいぶ遅くなってしまっていた。
 だから、ここでゆっくりしていく時間もあまりない。それでも、食後のコーヒーを飲んでいる時間くらいはあるはず。
 それは、いつもの日課で、変わらない毎日だった。
 職場と自宅とを往復するだけの、変わり映えのしない日常。それはつまらないかもしれないけれど、平凡で堅実な生き方だった。波乱万丈な人生を送りたいとは思わなかったし、ドラマに出てくるような恋も、映画のようなスリリングなできごとも、今の生活には無縁のことでしかなかった。
 彩はコーヒーを一口飲んで、持って来た読みかけの文庫本を出そうとして頬を引きつらせた。
 お気に入りの革製の渋めのブックカバーを掛けていたそれが、何やら珍妙なイラストのついた紙製のものに変えられている。
「な、何これ……」
 全く、身に覚えがない。
 いや、こんなくだらない悪戯をする相手の心当たりはある。だが、あまり考えたくない。
(大輔……あのバカ!!)
 思い浮かべた幼馴染の顔に向かって、彩は思い切り罵倒を浴びせた。
 大輔は彩の実家の隣に住んでいた幼馴染で、今はCG関係の仕事に就いている……らしい。らしい、というのは、あまり興味を持って彼の仕事の話を聞いたことがないからだ。彼の仕事の話を聞こうとすると、どうしてもその延長線上にある趣味の話にすっ飛んで行って収拾がつかなくなるので、面倒だからだった。
 お互いに実家から出て来て数年、たまに会って近況報告をしあうくらいの付き合いは続いている。とは言え、大輔とは色めいた方向に発展することはまるでない。何故なら、彼は相当のアニメオタクであり、あまりそういったことに興味はないらしいからだ。
 昨日だって久しぶりに食事に誘われたものの、終始そんな話ばかりされていたような気がしないでもない。
 別に、彼の趣味を馬鹿にしたいとは思わないし、その趣味が高じて仕事にまでしてしまった彼は、ある意味尊敬できると思う。それはそれで勝手にやってくれたらいいとは思うのだが、たまにこういう悪戯をするから頭痛がするのだ。
 たぶん、これは、今、彼が関わっているという何とかというアニメのキャラクターだろう。何だかいろいろと細かく説明をされたのだが、右から左に聞き流して終わってしまった。きっと、彩が聞いていなかったのに気づいてこんなことをしたに違いない。
 こういうどうでもいい悪戯を、本気でやるのが大輔なのだ。
 再び溜め息をついてそのブックカバーを外そうとすると、挟んであった栞まで同じキャラクターの仕様に変えられている。どこまでも用意周到だ。頭痛がしてくる。
 すると、何とも言えないタイミングで携帯がメールの着信を知らせる。相手を確認すると、案の定と言うべきか、この悪戯の張本人だった。
 彩が驚いたのを想像しているのが楽しいのだろう。メールの文面は短かったが、やけに楽しそうだ。腹が立つということでもない他愛無い悪戯ではあるが、さすがにこれを会社の人たちに見られてしまうようなことがあるのは気恥ずかしい。彼の仕事をバカにしたくはないけれど、そういう目で見てしまう人たちがいるのも本当だから、面倒ごとはなるべく避けたかった。
 彩はそのブックカバーを外して、丁寧に折り畳んでバッグにしまい込む。それから改めて文庫本を開き、読みかけのページに視線を落とした。
 そうして、彩が本の世界に引き込まれようとしていた、その時。
 店の扉が、勢いよく開いた。
 店そのものの佇まい同様に年季の入った扉は、もちろん、自動で開くようなものではない。時折、雨が降った日などは湿気で立て付けが悪くなり、客を拒否しているのではないかと思うくらいに重くなる代物だ。そして、扉同様に年季の入った鈴が、鳴っていると言うよりも勢いに振り回されて耳障りな音を立てた。
 その騒々しさにせっかくの時間を台無しにされたようで、彩は眉をひそめて視線を上げた。どうやら、入ってきたのは若い男らしい。ちらりと窺うが、見知った顔ではない。
 どうでもいいか、とばかりに、彩は視線を本へと戻した。その瞬間に、騒がしい珍客への興味は失せた。知らない相手がどうだろうと、彩には関係のないことだ。
 うるさい客がこの静かな空間の空気を乱して行くのは不愉快だが、ここは彩の店ではない。彩には客を拒む権利はないし、ほんの一時だけ我慢して、関わらなければいいだけの話だ。
 と、彩が我関せずを決め込んでいると。
 どかどか、と足音も高らかに歩いてくる音がして、誰かが彩の向かいの空いた席に腰を下ろした。