「ま、魔法使いさん!」

 たった今、目の前で閉ざされたばかりの扉に。

 チェリは、言葉を発していた。

 何故か、涙が出ていた。

「魔法使いさん! 魔法使いさん!!」

 ただただ、彼を呼ぶ。

 名前も知らないのだ。

 奇妙な男の肩書を連呼する以外、チェリに出来ることはなかった。

「聞こえてる」

 無愛想な声に。

 彼女は、振り返っていた。

 い、た。

 夜の色の髪と目をした、銀細工とマントと──ああ!

「よがっだぁぁぁ……」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにして、チェリはその場にへたりこんだ。

 ほっとしたのと嬉しいので、自分でもどうしたらいいのか分からない。

「私は言葉も悪いし、愛想も悪い。嫌な目にもあわせた……すぐ帰りたいんじゃないのか?」

 顔を顰めたまま、首を傾げられる。

 チェリは、泣きながら首を横に振っていた。

 この家は、とても優しい。

 時々、わがままになるけれども、彼女を大事にしてくれるのは伝わってきた。

 動かしているのは──この人。

 チェリのいる家を守るために、全部の力を出さずに、あっさりとニタに踏みつけられたのも、倒れた後、ベッドに運んでくれたのも。

「名前……魔法使いさんの名前……まだ聞いてないです」

 顔の涙を一生懸命拭きながら、立ちつくす彼を床から見上げる。

 ふわりと。

 チェリの身が、浮いた。

 彼の手が、椅子を引いてくれる。

 その椅子に緩やかに下ろされながら、驚きながら魔法使いを見ていた。

 彼は、吐息をつく。

 そして、しばしの沈黙の後、ようやく答えてくれた。


「……ルイルだ」


 二人、何とも言えない表情のまま、見詰め合ってしまった。

 何故、あのニタは──彼の名前を使ったのだろうか。


 ※


「ま、また……遊びに来てもいいですか?」

 チェリは、一生懸命それを訴えた。

 居心地が良すぎて、心がここに縛りつけられてしまったに違いない。

 帰りたくない強い気持ちをねじ伏せて、自分を納得させるには、次の約束しかなかったのだ。

「来たい時に勝手に来い」

 言葉は、とても優しいものではないが、きっと来てもいいということ。

「じゃ、じゃあ、今度はまた何か持ってきますね。お肉ばっかりでも飽きるなら、木イチゴでも林檎でも」

 何か。

 そう、何かもっとチェリに来て欲しいと思ってもらえたら。

 そうしたらきっと楽しくなると思って、彼女は一生懸命、自分が出来そうな思いつくことをあげた。

「うるさい」

 顔を顰められる。

 ああっ。

 見事な失態に、しょんぼりしてしまう。

 そんな自分に、彼はふぅと息を吐いた。

「……上層の聞こえ方と違う。しばらく上にいたから、こっちの音にまだ慣れない」

 ああ、そうか。

 よく分からないが、彼は違うところにいたらしいのだ。

 そこから、ウサギを食べて戻ってきたという。

 昨日の事件をつなぎ合わせて、チェリはその程度の事実は把握していた。

 ウサギ……。

 何気なく置いていったその存在を、彼女は思い出した。

「ウサギ……おいしかったですか?」

 出来るだけそーっと、囁くような声で言ってみる。

 すると。

 ルイルは。

 ほんの少しだけ。

 目元を緩めた。

「下層の食事も…悪くない」

 言葉のよくない彼の、それは──最大の賛辞。

 おかげで。

「ま、また、ウサギ獲ってきますね!」

 囁きも忘れ、チェリは大きな声を出してしまい、ルイルに耳を塞がせてしまったのだった。





【第一部 終】