「マキちゃん、マキちゃん、チュー」

「はいはい、お仕事終わったらね」

腰に腕を回し、首筋に鼻を埋め、溜まってく一方の書類に全く手をつけない魔王にデコピンをくらわせる。
魔王は「イタッ」と言って、嬉しそうにおでこを撫でた。

「頑張ったら、ご褒美、くれる?」

上目遣いで"ご褒美"を強調して言う魔王。

「それは仕事の質によるけど」

あえて冷たく突き放してやれば、魔王は慌てて書類を1枚取り出した。

「が、頑張る!から、ご褒美、ね?」

「うん。頑張れ。応援してる」

必死に頑張るアピールをする魔王に、つい、笑みがこぼれる。
この魔王の精神年齢はいったいいくつなのだろうか。

「言ったね!言ったからね!後で言い訳しても駄目だよ!
頑張る!頑張るからね!マキちゃん、見てて!マキちゃんが応援してくれるなら、人間でもなんでも滅ぼせるよ!」

とても明るく、無邪気な子供のように、とんでもないことを言い出した魔王。

「やめろ」

「えー…。だってさぁ…」

そう言って、魔王は瞳を細め、突然私の服を破く。
むき出しにされた体には、醜い傷が数えきれないほど刻まれていた。
一瞬目に映ったそれに身体が固まる。
床に落ちていく布切れを見て、必死にそれを見ないようにする。

「誰にされたの?これ」

魔王はつつ、と傷を指でなぞる。
自分よりも冷たい指に、体は震え、更に強張った。

「…人間に、でしょ?」

「…ち、がう」

「カナちゃん」

震える声で弁解するが、魔王の冷たい声に、抵抗することなど許されないのだと悟った。
彼は、腐っても魔王なのだ。
それに、

(名前を呼ばれるの、久しぶり…)

それだけで、体の強張りが緩み、懐かしさが胸に広がる。
魔王と、懐かしい顔が重なった。

(……元気にしてるかな…溯夜…)

瞬間、魔王の目つきが鋭くなった。
いきなり豹変した魔王に、まるで射抜かれたかのように息が止まり、目を反らせない。
部屋に緊迫した空気が流れる。
魔王は手を伸ばし、口を開く。
しかし、手は下ろされ、口も閉じられた。

「…とりあえず、お仕事するね!マキちゃんは着替えて、そのまま部屋で待っててよ」

さっきのは幻覚であったのではないかと思うくらい、一瞬で表情を戻した魔王。
しかし、そんな表情とは裏腹に目の奥はドロドロとした色に染められているような気がした。

(こんな格好にしたのはあんたでしょうが)

なんて毒ずきながら、魔王にぺこりとお辞儀して、その場を立ち去る。

何故か公務室には直接私の部屋に繋がる扉があるので、廊下へ出て、誰かに見られる心配はない。

すぐに部屋に戻り、着替えるために無駄に広いクローゼットの扉を開ける。
ついでに、ここに入ってる服は全て、魔王から送られたものだ。
どれもこれも、質もいいものばかりであり、初めは恐縮したものだ。

(受け取るまで泣きわめかれたら、受け取らざるを得ないよね)

うんうん。と、1人で勝手に納得して、近くの服を選んだ。



着替えて、さぁ、なにをしようかと部屋を見回す。
窓からはずいぶんと綺麗な庭が見え、ずいぶん立派な家具でコーディネートされた部屋だが、私のものなど、1つもない。

(でも、あの大量の服は、一応私のか)

すっかり座り慣れた椅子に腰掛ける。
あと、なにかあっただろうか。
私のもの。
…いや、それ以外、本当になにもない。

(空っぽだ。この部屋も。私も)

「なぁーんにもない」

背もたれに体を預け、目をつぶる。

(あるとしたら、魔王への執着か)

自傷気に口元を歪ませる。
しばらくすると、やってきた睡魔に身を任せる。
私の意識は深い闇に沈んでいった。



その時は何故、魔王があの名前を知っているかという疑問まで頭が回らなかった。