分厚い雲が空を覆い、残光を隠す夜。暗闇に紛れて十澄は実家を抜け出し、人気のない街並みを足早に通り過ぎて睡蓮邸を訪れる。
 息詰まる実家を離れて、安息を得るために紅姫に会いに行く。紅姫と出会った日から十澄にとって彼女の存在は唯一の安寧で、希望で、世界が与えた優しさだった。
 夜に家を抜け出すことも、十澄には珍しくない。幼子の頃から、実家は十澄に辛く厳しい場所だった。外にしか十澄の居場所はないが、外にも居場所は少ない。
 十澄の数少ない居場所、睡蓮邸の門を叩くと鬼丸に出迎えられる。

「こんばんは、鬼丸」
「お帰りなさいませ、十澄様」

 丁寧に一礼する鬼丸に十澄はにこにこと笑いかける。
 十澄が睡蓮邸を訪れるようになって、鬼丸の出迎えはいつも『お帰りなさいませ』だ。その言葉を初めて言われた幼い日、十澄は思わず涙を零して鬼丸を慌てさせた。お帰り、などと実家で言われたことは一度もなかった。

「姫様は庭でお待ちでございます。ご案内いたしますので、付いて来られてください」
「うん。頼むよ」

 普段なら玄関に向かうところを、脇に逸れて庭に向かう。
睡蓮邸を囲む高い塀に沿って散策するのは珍しくて楽しいのだが、目の前をちょこちょこ歩く鬼丸が気になる。鬼丸は一日に三度は転ぶ天才で、今日は何度こけたのか知らないが、また転びそうで怖い。

「ええっと、鬼丸。足元には気を付けて」
「はい。お気遣いありがとうございます」

 鬼丸は愛嬌のある顔を嬉しそうに笑わせる。
 その可愛らしさに十澄は頬を緩めるが、前方にあるものを見つけて目を見開く。

「あ」
「え? っ……わわっ」

 鬼丸が足を下そうとした先に、黄色の花が素朴に咲き誇っている。
 十澄の声で花に気が付いた鬼丸は下しかけた足を慌てて持ち上げたのだが、次の瞬間にはぐらっと身体を傾けていた。急な動作にバランスを崩したのだ。十澄が手を伸ばす暇もなく、鬼丸はべしゃっと真横に倒れる。同時にごん、と痛そうな音が空気を震わせる。

「あぁ……」
「ふがっ」

 十澄は天を仰いで鬼丸に同情の視線を向ける。
 横に倒れたはずみに睡蓮邸のでっぱりに頭を打ち付けた鬼丸は、よほど痛かったのか地面に倒れ込んでのたうち回っている。
 鬼丸はよく頭を打つが、今回もたんこぶをこしらえたようだ。一日にいくつの痣やたんこぶを作る気だろうか。

「鬼丸、大丈夫かい? あんまり痛いなら氷でも持って来るけど」
「と……十澄様にそのような雑事は、させられ……っません!」

 叫んで飛び起きようとした鬼丸は言葉の途中で痛みにうずくまる。真ん丸の目が涙に潤んで、羞恥に頬は赤く染まっている。
 十澄は生暖かい目で鬼丸を見守り、手を差し出す。畏れ多い、とおののく鬼丸の手を掴んで優しく立たせる。

「もう痛みは引いた?」
「は、はいっ。申し訳ございません!」
「うん、花が無事で良かったね」

 鬼丸と十澄の視線の先で、黄色の花は変わらず咲いている。目立つ花ではないが、一度目に入ると心を和ませられる。雑草でも、睡蓮邸にはよく似合った花だ。
 鬼丸と目を合わせて、互いに頬を緩ませる。

「さぁ、十澄様。今度こそきちんと姫様の下にご案内いたします」

 しゃきんっと背筋を正して鬼丸はまた歩き出す。
 十澄は小さな鬼の背を追いかける。
 睡蓮邸を囲む塀は見えなくなり、飛び石もない自然の道をすいすいと鬼丸は分け入っていく。十澄はまだ庭の全貌を把握できていないが、鬼丸は当然把握している。時々見かける石灯籠や石碑、小さな池や滝を目印に進んでいるのだろうが、鬼丸は十澄が行ったことのない場所へ案内しているようだ。
 鬼丸とはぐれたら迷子になると確信して、十澄は目の前の背を凝視する。鬼丸ばかりに目を取られて、草木の枝葉にぶつかって引っ掻き傷が少しできた。
 そろそろ道行が不安になってきた頃、十澄の目に紅姫の姿が飛び込んできた。赤い唐傘を差して、昼とは違う桜色の打掛を纏い、夜を見上げている。

「あぁ、やはり綺麗でございますね、この時期の蛍は」
「え?」

 言われて初めて十澄は辺りの様子に気付く。
 閑静な夜に数多の瞬きが淡く、儚く、周囲を浮き彫りにしている。ちかちかと輝く光点は飛び回り、睡蓮邸の木々や枝葉、繁みの一部を数秒だけ明瞭にさせる。蛍の群舞だった。
 十澄は幻想的な光景に一瞬呆けて、はっと我に返る。傍に控えている鬼丸の横を抜けて紅姫の下に足早に近づく。
 足音で十澄の来訪に気付いた紅姫が、くるっと赤い唐傘を回す。

「景、よく来た」
「うん。綺麗な夜だね」
「そうじゃな、綺麗なことが幸せの象徴とは思わんがのう」
「……?」

 紅姫の言葉の意味を理解できずに十澄は首を傾げる。
 大量の蛍がふよふよと宙を行き来して、紅姫の差す唐傘に一匹留まる。お尻を緩やかに点滅させて蛍は唐傘の赤みを際立たせるが、少しすると唐傘から飛び立っていく。それを目で追ったが、すぐに他の蛍に紛れて区別がつかなくなる。
 何の蛍だろうかと十澄は考えて、あることに気付く。

「十純、蛍が飛ぶには早すぎない?」

 日本の蛍のほとんどは初夏に成虫になる。夏の風物詩とも言われる蛍が、春風の吹き始めた肌寒い時期に飛ぶはずがない。今は蛍ではなく桜の時期である。
 まさか睡蓮邸の蛍は時季など関係ないのか、と考えていると紅姫が十澄を見上げて口を開く。

「こやつらは界渡りの先触れじゃ」
「……界渡り?」

 耳慣れない単語に嫌な予感がもたらされる。
 眉を顰めた十澄に、いやに淡々とした声で紅姫は説明する。

「わらわたち、墓守の屋敷は数十年ごとに場所を変える。国中を転々として、各地の妖怪たちを迎えに行くのじゃ。それをわらわたちは界渡りと呼ぶ。この蛍どもは、界渡りの起こる先触れよ」

 簡潔にまとめると睡蓮邸が屋敷ごと引っ越しをするということだ。墓守とは紅姫のように、寿命を持たない妖怪たちに安らかな死を与える役目を負った者を指す。妖怪たちの墓である墓池は各地に存在し、それを守る墓守も数多くいるらしい。
 紅姫の言葉の意味を理解して十澄は愕然と瞠目する。

「昨日の夜、初めて蛍どもが舞いよった。……あと三日も立てば、わらわたちはこの地を去らねばならん」
「っ…………次はどこに?」
「分からぬ。この屋敷は気まぐれゆえ、墓守のわらわにも想定できんのだ。これまでは――想定する必要もなかったからのう」

 かろうじて質問を絞り出すが、紅姫は寂しげに首を横に振る。
 十澄は強すぎる衝撃に思考を停止させて、じっと紅姫を凝視する。

(もう、会えなくなる)

 睡蓮邸が別の場所へ移ろえば、十澄は二度と紅姫に会えなくなるだろう。幼い時分に紅姫と出会えたことすら奇跡的な幸運であったのに、二度も奇跡が起こるわけがない。
 厳しすぎる世の中で、十澄にとって唯一の寄る辺は消え失せようとしている。

(……三日後、か)

 鈍い思考でひとつの符合に気が付き、十澄は無意識の内に自虐的な空笑いを洩らし始めていた。

「景?」
「ふ、ふふ……三日後、ね。本当にどこまで運命的なんだろう」

 その日付は夕方に父に打診されたばかりの、十澄の見合いの日と一致する。見合いを受けて、相手と結婚すれば紅姫との関係が変わりそうで怖かった。しかし事態はもっと切迫していたのだ。
 変化が起きたのは十澄だけではなかった。
 秀麗な面差しをいぶかしげにする紅姫に、見合いの話を知らせる。

「……そうか、見合いか」
「うん。たぶんその人と結婚するんじゃないかな、顔もまだ知らないけど」

 二人は揃って苦々しい笑みを浮かべる。

「むぅ、お主が結婚とは……。ほんの少し前はわらわより小さかったのに、人の成長は早いものよ」
「人間の寿命は短いから」

 寿命を持たない妖怪よりも永い年月を歩んできた紅姫には、十澄の成長もあっという間に感じられるのだろう。普段は気にしない年齢の差をこんな時に実感する。
 互いに形容しがたい複雑な感情を胸に押し込めて、二人は睡蓮邸を群舞する蛍たちを無言で眺める。
 蛍の成虫は一週間から二週間の命しか持たない。睡蓮邸を舞う蛍が一般の蛍と同じかは知らないが、この蛍たちもそう長くない命だろう。彼らは子孫を残し、息絶えて土へ返って行く。
 あと数十年も経てば十澄は土の下に埋まるはずだ。長生きできると思っていないが、もしも死ぬ時が来たら睡蓮邸の庭の端にでも埋まりたかったと今更のように思う。

「……ねえ、十純」
「どうした?」
「ぼくが死んだら、一度だけ会いに来てよ。どんなに時間がかかっても、墓の下で待ってるから、会いに来て」

 できる限り平静を装って懇願する。それは遠回しな別れの挨拶でもある。
 紅姫はつぶらな瞳を大きく見開いて数秒間絶句する。止めた息をゆるゆると吐き出して、紅姫はまぶたを閉じると小さく頷く。

「良かろう。わらわは睡蓮邸をあまり離れられぬ。遅くなるかもしれんが……必ず、行こう」
「良かった」

 その確約に十澄はくしゃっと顔を歪めて安堵する。
 互いの顔を見ないまま、紅姫と十澄は月を遮る雲居の夜の下、立ち尽くす。赤い唐傘に隠されて見えない紅姫の顔も、わざとらしく夜空を仰ぐ十澄の顔も、酷い有様なのは見なくても分かる。
 蛍の光に薄ぼんやりと照らし出される二人の顔を確認できるのは、二人の傍に無言で控えている鬼丸だけだった。
 結局その夜、互いの顔をまともに確認できないまま二人は別れた。