恭二郎と別れた場所からまっすぐ突き進むと左右に廊下が分かれる。右に折れて、一番奥にあたる部屋が父の私室である。用事を早く済ませたい反面、十澄の足は進むほどに重くなる。居間以外の場所で父と相対することに十澄は慣れていない。
のろのろと廊下を進んで、父の部屋のふすまの前で足を止める。ずっと突っ立っているわけにもいかず、廊下に膝を突いて中に声を掛ける。
「父上、景一郎です。入ってもよろしいでしょうか」
すぐに応えは返されなかった。父の不在を疑い始める頃になって、入れ、と低い声がふすまの奥から届く。
父の重厚な声を耳にすると十澄の身体はいつも強張る。顔に残るわずかな感情も抜け落として、十澄は薄いふすまに手を掛ける。簡単に開くはずのふすまが、十澄にはとても重く感じられた。
「失礼いたします」
ふすまを開いて頭を下げ、室内に身体を滑り込ませて、ふすまを閉じる。この動作の間、十澄は視線を床に落として父の顔には一度も目を向けていない。立ち上がって父の座る文机に前に腰を下して、十澄は初めて父を見る。
父は十澄とあまり似ていない。どちらかと言えば恭二郎と似ている。鍛えられて太い四肢、肌はよく焼けて白さとは無縁である。白髪混じりの黒髪はみっともなさより、年齢を重ねて得た熟年の魅力を感じさせる。細身で色素の薄い十澄とは正反対だ。
どっしりと構えた父を十澄は見据える。
「お前から私を訪ねるとは珍しいな」
「恭二郎から、父上が私を探していると聞きました。何か、私に用事があったのでしょうか?」
二人の間に流れる空気は親子とは思えないほど単調で淡泊である。十澄は硬い無表情で、父の額には深いしわが寄っている。親愛というものが、二人からはまったく感じられない。
ふむ、と父は髭を生やした顎に手を添える。
「十澄家の長男であるお前は、いずれ私の跡を継がねばならん。それはまだ先の話だが……家を支えてくれる嫁はそろそろ必要だろう。お前に見合い話が来ているから、受けなさい」
「……見合い?」
突然の命令に十澄は眉を寄せる。その時に十澄が感じていたのは、衝撃でも混乱でもなく諦めの混じった不快感だ。
十澄は今年で二十二歳になる。そろそろ結婚話が出されてもおかしくない年齢で、先ほども恭二郎から打診されたばかりである。女の影がない十澄にいずれ見合い話が上がることは予想できていた。
長男とは言え、十澄は家長命令に逆らえない。見合い話は勝手に進められ、相手が父のお眼鏡に適えば結婚まで簡単に成されるだろう。そこに十澄の意思は微塵にも混じらない。
(もともと仲は良くなかったけど……ここまでか)
十澄は胸中に湧き上る嘲笑と自虐を抑えられない。結婚は間違いなく、十澄の一生を決める大事な出来事だ。それを一言の断りもなく、意見を言う隙もなく勝手に決められる。父の傲慢さに怒りと嘆きが交互に押し寄せてくる。
感情が表に出たのだろう、父が不愉快そうに顔を歪める。
「何だ、その顔は。文句があるなら遠慮なく言いなさい」
「……何でもありませんよ。私には元から父上の提案を拒否できる権限はありませんからね」
「景一郎!」
「お話はそれだけですね?」
唸る父に無言で退室の意を伝える。
父は肩を怒らせて十澄を睨んでいたが、不機嫌そうに嘆息する。それから脇に置いていた書類の山から一枚、取り出して十澄の前に放る。
「見合い相手の絵姿だ。日取りは三日後の昼時、きちんと準備をして十澄家の恥にならないよう気をつけろ」
「分かりました」
無理だろう、と心中で反抗しながら頷く。
外国の血を色濃く受け継いだ十澄では、どれほど努力しても生まれ直さない限り、家の恥となる。文明開化で外国の物品や人が溢れ出したと言っても、外国の血は厭われる。特に格式の高い家ほどそれは顕著だ。
差し出された絵姿を手に取って、入室した時とは逆の手順で父の部屋を出る。ふすまをぴしっと閉めると、十澄はふぅっと肩の力を抜く。力ない表情で手の中の絵姿に目を落とす。
絵姿には東雲色の小袖を纏った妙齢の女性が描かれている。これが正確なら、それなりに美しい品格のある女性なのだろう。
以前に見たことがある東雲色の打掛姿の紅姫を思い出し、比べてしまう。どんなに見合い相手が美しく完璧であっても、紅姫ほど気高くも綺麗でもない。――どんな女性も紅姫ほど大事にはできない。
十澄は大きくため息を零して、ぐしゃっと絵姿を握りつぶす。その場で絵姿を捨ててしまいたい衝動を噛み殺し、足早に父の部屋から離れる。
たまらなく、紅姫に会いに行きたかった。
のろのろと廊下を進んで、父の部屋のふすまの前で足を止める。ずっと突っ立っているわけにもいかず、廊下に膝を突いて中に声を掛ける。
「父上、景一郎です。入ってもよろしいでしょうか」
すぐに応えは返されなかった。父の不在を疑い始める頃になって、入れ、と低い声がふすまの奥から届く。
父の重厚な声を耳にすると十澄の身体はいつも強張る。顔に残るわずかな感情も抜け落として、十澄は薄いふすまに手を掛ける。簡単に開くはずのふすまが、十澄にはとても重く感じられた。
「失礼いたします」
ふすまを開いて頭を下げ、室内に身体を滑り込ませて、ふすまを閉じる。この動作の間、十澄は視線を床に落として父の顔には一度も目を向けていない。立ち上がって父の座る文机に前に腰を下して、十澄は初めて父を見る。
父は十澄とあまり似ていない。どちらかと言えば恭二郎と似ている。鍛えられて太い四肢、肌はよく焼けて白さとは無縁である。白髪混じりの黒髪はみっともなさより、年齢を重ねて得た熟年の魅力を感じさせる。細身で色素の薄い十澄とは正反対だ。
どっしりと構えた父を十澄は見据える。
「お前から私を訪ねるとは珍しいな」
「恭二郎から、父上が私を探していると聞きました。何か、私に用事があったのでしょうか?」
二人の間に流れる空気は親子とは思えないほど単調で淡泊である。十澄は硬い無表情で、父の額には深いしわが寄っている。親愛というものが、二人からはまったく感じられない。
ふむ、と父は髭を生やした顎に手を添える。
「十澄家の長男であるお前は、いずれ私の跡を継がねばならん。それはまだ先の話だが……家を支えてくれる嫁はそろそろ必要だろう。お前に見合い話が来ているから、受けなさい」
「……見合い?」
突然の命令に十澄は眉を寄せる。その時に十澄が感じていたのは、衝撃でも混乱でもなく諦めの混じった不快感だ。
十澄は今年で二十二歳になる。そろそろ結婚話が出されてもおかしくない年齢で、先ほども恭二郎から打診されたばかりである。女の影がない十澄にいずれ見合い話が上がることは予想できていた。
長男とは言え、十澄は家長命令に逆らえない。見合い話は勝手に進められ、相手が父のお眼鏡に適えば結婚まで簡単に成されるだろう。そこに十澄の意思は微塵にも混じらない。
(もともと仲は良くなかったけど……ここまでか)
十澄は胸中に湧き上る嘲笑と自虐を抑えられない。結婚は間違いなく、十澄の一生を決める大事な出来事だ。それを一言の断りもなく、意見を言う隙もなく勝手に決められる。父の傲慢さに怒りと嘆きが交互に押し寄せてくる。
感情が表に出たのだろう、父が不愉快そうに顔を歪める。
「何だ、その顔は。文句があるなら遠慮なく言いなさい」
「……何でもありませんよ。私には元から父上の提案を拒否できる権限はありませんからね」
「景一郎!」
「お話はそれだけですね?」
唸る父に無言で退室の意を伝える。
父は肩を怒らせて十澄を睨んでいたが、不機嫌そうに嘆息する。それから脇に置いていた書類の山から一枚、取り出して十澄の前に放る。
「見合い相手の絵姿だ。日取りは三日後の昼時、きちんと準備をして十澄家の恥にならないよう気をつけろ」
「分かりました」
無理だろう、と心中で反抗しながら頷く。
外国の血を色濃く受け継いだ十澄では、どれほど努力しても生まれ直さない限り、家の恥となる。文明開化で外国の物品や人が溢れ出したと言っても、外国の血は厭われる。特に格式の高い家ほどそれは顕著だ。
差し出された絵姿を手に取って、入室した時とは逆の手順で父の部屋を出る。ふすまをぴしっと閉めると、十澄はふぅっと肩の力を抜く。力ない表情で手の中の絵姿に目を落とす。
絵姿には東雲色の小袖を纏った妙齢の女性が描かれている。これが正確なら、それなりに美しい品格のある女性なのだろう。
以前に見たことがある東雲色の打掛姿の紅姫を思い出し、比べてしまう。どんなに見合い相手が美しく完璧であっても、紅姫ほど気高くも綺麗でもない。――どんな女性も紅姫ほど大事にはできない。
十澄は大きくため息を零して、ぐしゃっと絵姿を握りつぶす。その場で絵姿を捨ててしまいたい衝動を噛み殺し、足早に父の部屋から離れる。
たまらなく、紅姫に会いに行きたかった。