ふわっと温かい微風が頬を撫でて、十澄は声を掛ける。穏やかな風の流れは風切姫がいつも身に纏う気配で、この場合は客の到来を告げている。
 二人が来た道とは逆の方向から、見慣れた使用人二体と客らしき異形が向かって来ている。風切姫と鬼丸に案内されてくる天狗は、十澄の想像と大差ない特徴をしていた。       
 厳しく引き締まった顔はやや赤く、鼻は高い。背には漆黒の翼を立派に生やし、服装は着古した常盤色の袴姿だ。遠目にも老人を彷彿とさせる覇気のなさが見て取れる。

(なるほど)

 庭園の空模様が穏やかな理由に十澄は納得する。非常におかしなことに、睡蓮邸は異形の客が訪れる間は客の気分に応じた天気を引き起こすのだ。怒り狂った客の時は大嵐になり、沈んだ客が来ると雨が降る。その点、今回の天狗は怒りも悲しみもとっくに超越して忘れてしまったような雰囲気を纏っており、それが今の穏やかな空模様に繋がっている。
 紅姫と十澄よりもゆっくりと歩いてきた天狗は東屋に上がると、紅姫の前で丁寧にお辞儀をした。紅姫も一つ頷いて礼を受け取る。

「お初にお目にかかります、紅姫様。わしは天狗の古暮と申しまして、こちらの噂を耳にしまして、来た次第にございます」
「ほぅ、わらわは睡蓮邸の主、紅姫じゃ。して、噂とは? わらわの噂は溢れておるからのう」

 紅姫の向かいの長椅子に腰を下した天狗は、これまでの客と比べて格段に礼儀正しい。彼らにとって紅姫は上位の存在でも、基本的に彼らは自由で礼儀に捕らわれることがないため、多くの客は粗雑な態度を取るのである。
 紅姫も天狗の態度に少し驚いた様子だった。

「それが、この地に来ればわしのような者でも救われる、楽になれると聞きまして。本当でございましょうか?」
「それを答える前に聞こう。――お主はわらわに何を求める? お主のような者とは、どのような者なのじゃ?」
「また難しい質問でございますな」
「聞いておかねば、間違った後では取り返しがつかぬゆえ」

 東屋で客を迎える時、紅姫は必ず客と向かい合って話をする。客が何を求めて睡蓮邸を訪れているのか、見極めた後に眼鏡に適った者だけに手を差し伸べる。
 天狗は白髭の伸びた顎に手を当てて考え込む。

「……一言で申せば、命を終えたい者でしょうか。わしはもう二千年近く自由に生きて参りました。若気の至りで暴れ回ったことも、山の妖怪の頭目になったことも、人間と取引してひと財産築いたこともあります。ですが、この歳になると……疲れてしまいまして。
 紅姫様、我らはいつまで生きなければならんのでしょうか?」
「妖怪とは言え、お主ほど生きる者は少ない。お主の言いたいことも分かるつもりじゃ、わらわはこう見えてお主より歳を重ねておるからの。しかし、ここに来なくとも自ら死ぬことも、他の者に討たれることも、できたであろう?」

 基本的に彼ら、妖怪は寿命を持たない。ある日、唐突に世界に生み出されて自由に過ごし、多くの者は他の妖怪に殺され、あるいは事故で世を去る。妖怪の世界は弱肉強食で、人間よりよほど死と向い合せの日常だ。そんな彼らの中で千八百年も生きられたことは珍しいとしか言いようがない。
 天狗は彫りの深い顔に苦い笑みを浮かべる。

「……それができたら苦労はしません。わしはこれでも名の通った妖怪でして、わし自身もプライドが高すぎる。むざむざ格下の妖怪に討たれることも、自死することも、プライドが許さんのです」
「なるほどのう」

 穏やかな天狗の顔に一瞬だけ険しい表情が浮かび、かつての猛々しさを覗かせる。紅姫はそれを見逃さず、じっと天狗を見定めている様子だ。
 しかし十澄の目には紅姫がとうの昔に結論を出しているように見えた。おそらくそれは間違いではない。天狗はどう見ても、果て無き命という終わりの見えない生に疲れ果てている。
 そして睡蓮邸は、紅姫は、彼らを救う唯一の穏やかな導き手なのだ。

「もう、未練はないのじゃな?」
「ありませんよ」

 天狗と紅姫の間で視線が交差する。双方にどんな無言の応酬があったのかは分からないが、紅姫は一度目を伏せると東屋の長椅子から立ち上がる。

「良かろう。わらわは睡蓮邸の主としてお主を迎え入れよう、天狗の古暮よ」

 まっすぐに天狗を見据えて、紅姫は愛らしい目元を崩す。互いの短い距離を縮めると紅姫は小さな両手で大きな天狗の赤い頬を挟む。まるで母親のような慈愛で、紅姫は天狗に微笑んだ。

「よく、ここまで来た。疲れたであろう、ここでゆるりと休むがよい。お主の魂が消えるその時まで、わらわが見守ろう」

 年老いた天狗の顔に大きな狼狽が浮かぶ。
 紅姫の幼い造りの顔に浮かぶ表情は鮮やかで、どこまでも優しく温かい。想像もできないほど永い歳月を睡蓮邸で過ごしてきた彼女は、精一杯の愛情を持って天狗の望みを叶えようとしている。
 全てを受け入れてくれるような安心感をもたらす紅姫の笑みを前に、天狗は幼い子どものように顔を崩した。数百年前は周りを震撼させた赤い瞳から、雫を一滴、零す。

「……ありがとう、ございます……」

 感涙のあまりかすれた声で、天狗は背中を丸めてうつむく。
 紅姫は天狗の幅広い肩をぽんぽんと優しく撫で、視線だけを東屋に控える使用人たちに向ける。
鬼丸と風切姫はすぐに主の意向を読み取って、東屋の奥に伸びるもう一つの出入り口の両脇に寄り添った。
 東屋には十澄たちが上ってきた東の門と、池に下るための西の門の二つの出入り口がある。東の門は客が来るたびに使われるが、西の門は紅姫が許した者しか下ることができない。
 今から天狗は睡蓮邸の主と西の門を下るのだろう。

「……いやはや、お恥ずかしいところをお見せして、申し訳ありません」

 紅姫に慰められて落ち着きを取り戻した天狗は、元から赤い顔をさらに染めて頭を下げる。東屋にいる者は全員、気にするな、という顔で首を横に振った。
 睡蓮邸を訪れる者の多くはこの東屋で心を乱す。天狗の態度はまだ穏やかな方で、中には泣き叫ぶ者も怒り狂う者も、会話ができないほど自分の殻に閉じこもる者もいる。    
 年の功と言うべきか、すっかり元の調子を取り戻した天狗を見据えて紅姫は厳かに切り出す。

「古暮、――死を、望むか?」
「望みます」

 天狗の返答に迷いはなかった。
 ならば、と紅姫が寂しげに微笑む。

「我が手を取れ、古暮」

 差し出された小さな手を天狗のしわの刻まれた手が取った。
差異の大きな二つの手の甲に、数秒間だけ異変が起きた。幾つもの花弁を鮮やかに伸ばした睡蓮花の紋様が、淡く深く朱色に浮かんで消えたのだ。
 目に見えなくなった紋様は相互の魂に刻まれた刻印。


――契約は為された。