紅睡蓮の墓守邸

 紅姫には始まりの記憶がない。人間であれば、母親の胎内から生まれ出た時の原始的な記憶のことである。人間にとって当たり前の話だが、人外の精霊や妖、悪魔のような存在の中には、自分が生まれ落ちた瞬間の記憶がある者は少なくない。
 墓守が世界に生まれたのは、もう一万年以上も昔の話である。突然、紅姫はそこに在る自分というものを認識した。人間にとっての親や、妖のように生まれる元となった道具や思想という下地が墓守にはなかった。世界が必要としたから、突然そこにぽっと現れただけの、厳密には生命を持たない“世界の一部”なのだ。
 紅姫は生まれた瞬間から墓守としての役割を自覚し、まず自分の生まれた空間に睡蓮邸を建てた。そして、その場に救いを求めてやってきた妖をすぐに迎え入れて、彼らに“死”を与えた。当時の睡蓮邸は今の面影もない、粗末な掘っ立て小屋であったが、紅姫は何の不便も感じていなかった。
 生まれたばかりの紅姫は、赤子のようなもので、自分の役割以外のことをさっぱり理解していなかった。世界に美しい風景や美味しい食べ物、楽しい逸話がたくさんあることも知らず、ただ純粋に墓守の機能だけに忠実な人形だった。
 それがいつしか、紅姫に仕えようと訪れた者に囲まれ、彼らに言われるがまま睡蓮邸を造り変え、年月を重ねるうちに世界の在り様を理解するようになった。自分の嗜好を把握し、喜怒哀楽を知って、妖たちが墓守に畏怖と尊敬を向けていることを知った。
 世界の美しさを知ると共に、紅姫は自らの孤独や墓守の使命の残酷さを自覚せずにはいられなかった。誰もが時の流れに負けて紅姫の下を去っていく。初めに紅姫に仕えた者たちも、一万年も過ぎれば誰も傍にいない。永久の暇を願い出て、睡蓮邸の池に美しく咲き誇っている。
 初めこそ紅姫の心を躍らせた全てのものは、千年も過ぎる頃には意味を失くし、色を失くした。裕福な暮らしも贅沢な調度品や衣類も、紅姫の心には響かなくなった。ただ誰かに“死”を与える度に深みを増す暗い穴が胸の隅を占拠するようになった。
 紅姫は墓守の使命に全てを捧げるだけの存在だった。世界にとって都合の良い操り人形であろうと、自らそうしていた。紅姫たち墓守は妖のように時の流れの長さに狂うことはできない。――死という救いは永遠に与えられない。
 ただただ無為に、墓守の使命に溺れて存在し続け一万年を超え――ようやく、紅姫は出会えた。

『……十純』

 誰かに真名を呼ばれることが、これほど嬉しいものとは紅姫は知らなかった。
 墓守にとって真名は存在の本質を表すものである。生まれた同時に当然のように知り、世界と自分を別物と捉えるための唯一の鍵だ。真名を失くして墓守は個(アイデンティティ)を確立できない。真名が意味を失くした時、墓守は世界の一部に還元されて存在を消去される。
 それは“死”よりも恐れるべき、虚無への廃棄である。墓守として生まれた自分を否定され、駆逐される行為なのだ。
 だから墓守は他者に真名を預けない。真名の意味を穢された時、墓守は世界から消される。真名を預けるということは、他者に生殺与奪権を渡すという行為だった。
 それを知りながら、紅姫は十澄に名を預けることを躊躇わなかった。たとえ彼の悪意によって真名を穢されたとしても紅姫は本望と思うに違いない。
 何より恐ろしいものなれど――それは墓守に与えられた唯一の終わりへの道なのだ。
 今の紅姫は終わりを望んではいないが、自分の持てる唯一の宝を預けられる者がいることをとても尊んでいた。その者を深く、愛するがゆえに。


「――景」


 紅姫はその名を口ずさみ、目尻から生暖かい雫が流れていくのを感じる。ぼんやりと滲んだ視界を認めて、紅姫はようやく眠りから目を覚ましたことを察した。しぱしぱと瞬きを繰り返すと視界は正されて、溜まった涙は引っ込んで行く。
 すっかり意識も明瞭になり、紅姫は身を包む寝具の感触を確かめながら目を彷徨わせる。寝落ちする寸前まで十二色の宴に参加していたことを覚えていた。今睡蓮邸にいることから、十澄がしっかりと連れ帰ってくれたのだろう。
 紅姫はわりとすぐに探す影を見つけ出した。

「ああ、十純。目を覚ましたんだ、気分はどう?」
「少し疲れが取れたかも知れぬ。……お主の方はどうであった?」
「まったく、ぼくも慌てたよ。何とか、十純の身体に異常があるわけではないって曖昧に誤魔化して逃げるように帰って来た。……次の機会に問い質されるかもねえ」
「なるほど、面倒なことよ」

 今回の十二色の宴を思い出して、紅姫はいささか憂鬱そうな顔をする。同胞たちの興味も理解はできるが、質問攻めにされるのは並々ならぬ疲労を伴った。喧騒より静寂を好む紅姫としては、何度も経験したいものではない。
 しかしどの道それは、百五十年は先の話である。墓守たちの興味が他に移っている可能性は薄いが、その頃には紅姫の気の持ち様も変わっているだろう。もう十澄の存在は知らせてあるから、今度こそ一緒に赴いても良い。
 頭を悩ませる紅姫の隣から、くすっと苦笑する気配がする。

「ずいぶん疲れたみたいだけど……宴は楽しかった?」
「まぁ、悪い気はせぬ。何であれ、同胞ゆえ」
「それは良かった」

 紅姫は他の十一名の墓守を好いている。この一万年以上に渡る時間を乗り越えて来たのは、間違いなく同じ境遇にいる彼女たちと繋がりを持てたからだ。そうでなければ、紅姫は自ら真名を穢して消滅を願っていたかもしれない。
 たとえ次の宴が多少面倒な事態になろうとも、紅姫は十二色の宴に参加し続ける。もうすでに四名の墓守が遠退いた宴の、五番目に名を連ねる気はなかった。

「わらわはどれほど眠っておった?」
「半日くらいかな」

 その言葉を確かめるように紅姫は部屋の窓の方に視線を移す。わざわざ確認するまでもなく部屋は暗く、障子戸で閉め切られた窓は光を通さない。その向こうには夜の帳が降りていることだろう。
 もうすぐ、十二色の宴も終わりを迎える。つかの間の休息もこれで終わりだ。
 紅姫はそっと息を吐いて寝具から身を起こした。半日も寝続けると身体を動かすのも億劫に感じられて、重たい動作で立ち上がる。おそらく使用人が着替えさせた真っ白な襦袢も、灯籠で辺りを照らすばかりの部屋ではよく映えた。
 不思議そうに十澄はその動向を見守っている。
 紅姫は乱れた白襦袢の裾を直しもせず、窓に向かって障子戸に手を伸ばす。障子戸を開けた向こうには、西洋から伝わったガラスが嵌められ、外の闇夜を透かしていた。
 今夜の月は、満月には少し足りない十三夜の月だった。冴え冴えとした月光が何にも遮られずに庭に息づく植物をひそやかに照らしている。
 紅姫はガラス窓の枠に手を掛けて横に引く。ふわっと解放された窓から冷たい夜気が、紅姫の身体にぶつかって奥に流れていく。

「今宵は月の美しい夜じゃ」

 ぽつりとつぶやいて、紅姫はじっと様子をうかがっている十澄を振り返る。
 しばらくの間、穏やかな沈黙が辺りを支配した。

「……どうして泣くんだ?」
「何?」
「だって、涙が……」

 そう指摘されてようやく、紅姫は自分の頬を伝う生温かな雫の存在を意識した。つー、と一筋の跡を頬に残し、透明な雫は顎に溜まって、ぽたっと襦袢の裾を濡らす。
 何故涙が眦を濡らしたのか、紅姫自身にもよく分からなかった。ただ漆黒の瞳を瞬かせ、不思議そうに涙を吸収して濡れた襦袢の裾を見つめる。
 十澄は困った風に眉を下げてそれを見守り、辺りの静寂を侵さない動作で立ち上がった。紅姫の傍らに立って、紅姫が先ほど見上げた夜空を同じように眺めた。望月に満たない月を捉えて、紅姫の言葉に同意する。

「ああ……確かに綺麗だ」
「そうであろう?」

 月明で照らされた夜空には雲一つなく、代わりに数々の星がきらめきを増して天の川をはっきりと作っている。睡蓮邸の上空から降る輝きは闇夜と思えないほど、月下を仄明るく照らしていた。
 涼やかに深みを増す天空は、睡蓮邸の主の心を反映して静かに凪いでいる。それは紅姫の心に憂慮が潜んでいないことを何よりも証明している。紅姫はその空のように穏やかな気分で、十三夜の月に魅入られていた。

「十純……また泣いてる」
「ああ、そのようじゃ」

 傍らから十澄の伸ばした手が、はらはらと紅姫の頬を流れ落ちる涙を丁寧に拭い取る。その間も紅姫は夜空から視線を逸らさなかった。
 十澄は止まらないその涙を見つめ、そっと紅姫の小さな身体に黙って寄り添った。

「ほんに、綺麗じゃ」
「うん……いつでも睡蓮邸は綺麗だけど、今夜は一段とね」



――二つの影はぴったり寄り添って。いつしかひとつになった。
――それがまた、二つに分かれることはきっと、ない。