まだ見ない天狗に想いを馳せて紅姫と共に歩く廊下は長い。一定間隔ごとに戸締りされた部屋が両脇に並び、戸口の横にはそれぞれ花の絵が彫られている。広大な睡蓮邸の数ある部屋はどこも花や草の名が冠され、工夫を凝らした内装にされているのだ。
 途中、何度か廊下の分かれ道を曲がって行くと、やっと前方に庭に面した縁側が見えてくる。外からの日差しが白く縁側を照らしつけて長閑な雰囲気が窺える。だがそこに待ち受けるものが、決して穏やかなものだけではないと十澄は知っている。
 焦らずに縁側まで出ると紅姫は外の様子を目にしてつぶやく。

「……よく落ち着いておるわ。客を迎えるのに、これほど穏やかなのも珍しい」
「本当に。今回の天狗は良い人そうで安心だよ」
「人、ではなかろう?」
「ああ、うん。分かってるけど、つい」

 間違いの指摘を小さく笑って受け流し、十澄は縁側に張られたガラスの戸を引く。建築にガラスが組み込まれ始めたのは文明開化が起きた最近であるが、睡蓮邸には何故か大昔からこのガラス窓や戸が当然のように据え置かれてきたらしい。
 両側のガラス戸を全開にして十澄がひょいっと庇に顔を出すと、大きな石を埋め込んで造った足場にきちんと下駄が二組揃えられている。

「あぁ、鬼丸だね。やっぱり彼は気が利く」
「あのおっちょこちょいを治したら、もっと最高の家令なのじゃが」
「駄目だよ、十純。鬼丸からドジを奪ったら鬼丸じゃないって」
「何気に酷くないか、お主?」

 そんな冗談を交わしながら縁側に腰を下し、紅姫は朱色の緒の下駄を履く。続いて十澄もその横に置かれた大きい下駄に足を通して、また紅姫に手を差し出す。
彼女はその体躯のせいで、比較的小さな段差にもつまずくことが多い。十澄のエスコートが上達した理由はそこにある。
 でこぼこした足元に気を配って綺麗に整えられた庭園を歩き出す。形の不揃いな飛び石が間隔を開けて地面に埋め込まれ、長く続いている。足の長い十澄には楽に行ける道筋でも、紅姫は大きく歩幅を取らなければならない。
 初めは飛び石の両脇に流水を模した白い砂紋が広がっていたが、道しるべに沿って狭まる道筋を辿ると、適度に刈られた松の木や大きめの景石が辺りを散りばめ始める。砂の無機質さより緑が多く目に入り始めると、地面も芝生混じりに変わって前方に深い水の色が見えてきた。
 木々の間から覗く水が二人の前に全貌を表すと、十澄は思わず足を止めて見入る。紅姫も見慣れた庭模様にかすかに目元を引き締めて対岸の見えない池を眺める。

「何度見ても、圧巻だよ」
「ほんにお主は慣れんのだな、これを見るのも数百度目であろうに」

 紅姫の呆れの視線を受けても十澄は眼前の池に見惚れている。
 池、とは言ってもその大きさは並大抵ではない。海、と評してもおかしくないほどの面積を持ち、対岸は地平線の彼方である。睡蓮邸との付き合いも長い十澄も反対岸までは歩いたことがない。紅姫によると、行くには人間の足で二日以上かかるそうだ。
 底の見えない澄碧の池は、凪いだ水面の上に数えきれない花を咲かせている。大きな円状の葉が重なる合間に水面ぎりぎりに咲くのは睡蓮だ。赤や白、薄紅の睡蓮が池全体に広がって咲き誇る。この睡蓮こそが、睡蓮邸の名の由来である。
 十澄が初めてこの池を目にしたのは十年以上も昔の話だ。当時は想像を超える景色に圧倒されて三十分近くも立ち呆けた。しかし、今ではそんなこともなく、紅姫に着物の裾を引っ張られて我に返る。

「そろそろ行かねば、客を待たせてしまうぞ?」
「あ、あぁ、ごめん」

 慌てて十澄は池から視線を剥がして、飛び石に沿って歩き出す。行く先には一般的な石灯籠の他にも、鬼や河童など異形を彫った石もところどころに据え置かれている。十澄は慣れたが、睡蓮邸は一般の人間の目にはずいぶんと奇妙に映る屋敷だ。
 心持ち急いで向かう先に、目的の東屋が見えてくる。池に面して造られた小さな東屋は素朴に美しい細工が凝らされ、ひっそりと緑の合間に建っている。
 丘陵になった東屋へ飛び石は続き、二人は下駄をかつ、かつ、と鳴らして上って行く。東屋の目の前に渡された細い石橋まで来ると、十澄が一歩前に出て慎重に橋を渡る。子どもの頃に一度、池に落ちた時は意外な深さに足を取られて溺れたのを思い出した。

「……お主、まだ怖いのか?」
「うーん、どうだろうね。溺れるのはそりゃあ、怖いけど……この池は怖くないよ」
「大丈夫じゃ、溺れても死ぬ前にわらわが助けよう」
「……昔はともかく、今は体格差が」
「その時は他の者を呼べばよい。わらわが一声掛ければ、飛んで来よる」

 石橋に踏み入って十澄の顔色が曇ったのを敏感に察して、紅姫は小さな胸を張って励ます。実際に溺れた当時は紅姫の手を借りて池から這い上がったのだが、今はそうはいかないだろう。

(それに、綺麗な着物を汚すのも嫌だからね)

 要は十澄が池に落ちなければいいのである。睡蓮邸において、池に落ちて自力で上がれないのは人間の十澄だけなのだ。
 紅姫の心遣いを有り難く思いながら、十澄は彼女の手を引いて東屋の前まで来る。年季が入って黒ずんだ木目の段差に気を付けて上がると、東屋の両端に木の長椅子が取り付けられている。十澄はそこに案内して紅姫を座らせる。

「客はまだのようじゃ。間に合って良かったわ」
「うん、ここまで来てまた待たせるのも嫌だからね」

 睡蓮邸を訪れる者は多かれ少なかれ、待つことに疲労を感じている。彼らは延々と流れる時間を無為に過ごすことに疲労して、ここまで足を運ぶのだ。客よりも位の高い紅姫が先に来て待つのは、そういった優しさに寄る。
 鈴蘭の間にいた時とは違い、物腰も上品に座る紅姫の横に十澄は立つ。この東屋で客を迎える時、十澄はできるだけ影に徹することにしている。睡蓮邸において、この東屋や客の前において、明らかに十澄は不要な異端分子だからだ。
 紅姫や睡蓮邸の住人はそんな差別意識は欠片にも抱いていないが、自分の分を忘れた時に生死すら危うくなるのが、この睡蓮邸の厄介な面なのである。

「十純、来たみたいだ」