紅睡蓮の墓守邸

 初めに声を漏らしたのは瑠璃だった。じっと十澄を凝視して、困惑の表情を作っている。

「とずみ……? それって本名なの? えっと、苗字だよ、ね?」
「ああ、はい。本名ですよ」

 あっさりと十澄が肯定すると、瑠璃は驚いた様子で口をつぐむ。
 紅姫と十澄は何が墓守たちを困惑させているのか察して、顔を見合わせた。

「ふ、ふふふふっ」
「くっ」

 突然、二つの笑い声が宴の間に響く。朽葉が上品に口元を手で隠し、藤は遠慮なく声を立てて、それぞれの顔に笑みを広げていた。他の墓守を無視して、さもおかしげに笑い続ける。
 やがて笑いを抑え込むと朽葉と藤はお互いに視線を交差させる。彼女たちはどことなくすっきりした顔で、十澄と紅姫に視線を向けた。
 その口が墓守たちの困惑の原因をあっさりと明かす。

「まったく……、“とずみ”だって? 名前と苗字の違いがあるとは言え、同じ名を冠しているのか! これほど傑作なことがあるかよ?」
「あら、言い方が悪くってよ。とても運命的な出会いではないの!」
「まぁ、早々あることじゃあ、ないよなぁ」
「ええ。これは喜ばしいことでしょう?」


――十澄と十純。


 何の作為もなく、仕組まれたように同じ名を持つ二人は出会った。そこには紅姫が珍しく人の世に降りて来ていたこと、十澄が不遇な身に生まれたこと、そうした様々な偶然が折り重なって生まれた奇跡的な繋がりがある。
 まさに運命、そう結論付けても構わないほどの因果が、紅姫と十澄の間にはあった。
 墓守にとって名前はその者の本質を表す、大事に秘匿されるべきものである。たとえ同胞でも名前を呼び合うことはなく、各称号で呼び合うならわしだ。今まで名前を他者に預け、呼ばせた墓守は存在しない。あの白銀でさえも、番となった人間に名を託さなかった。
 それをいとも簡単に、かつての紅姫はその意味すら分かっていない人間の子どもに託した。今でも十澄は、紅姫の名を呼べる特別性を正確には理解していない。
 約三十年前を紅姫は今も鮮やかに思い出す。
 ほんの気まぐれで紅姫は人の世の祭りに紛れ込んだ。誰もが数多の提灯の明かりに照らされながら一時の騒ぎに興じる中で、闇に埋もれるようにして、うずくまり泣いていた異国の子。その子に手を差し伸べたのは、何とはなく紅姫の気を引くものがあったからだ。
 その白色の肌や金混じりの髪は、日々妖に見慣れた紅姫の眼には奇異に映らない。だが顔を歪めて泣く子どもの、涙を流し続ける虚ろ気味の瞳に惹かれた。その暗夜の瞳に、紅姫は自分の姿を映してみたくなったのだ。

(わらわは……あの子を憐れに見たのではない)

 ただその虚ろに周囲を眺めるほの暗い色が。

(わらわと重なっただけじゃ)

 孤独。癒えもしない心の傷が、祭りに賑わう喧騒の中で浮き立って見えた。
 それは傷を負った者同士の、傷の舐め合いだったのかも知れない。幼い十澄に自己投影をして、彼を慰めることで身勝手な満足感を求めただけかもしれない。
 それでも紅姫は、次第に身近になる十澄の存在に救われた。

『考えたのじゃが、やはりお主と離れるのは惜しい。わらわは景が欲しいのじゃ。――だから、わらわと共に来い』

 あの時、そう言って十澄を人の世から引き離したことを紅姫は欠片も後悔していない。いつか悔いる日が来るとも、思っていない。
 何の掛け値もなく、紅姫には十澄が必要だった。

(まったく、何という因果であろうな)

 紅姫は誰にも気づかれないほど小さく、苦笑を零す。

「ねーえ、よく分からないけど、それってもう決着がついた話なんでしょ? 紅も、そこの人間も席に座ったら?」

 緊張感の漂う中でも変わらず桜にまとわりついていた萌葱が、小首を傾げて提案する。
 すでに宴の間は硬い雰囲気をとうに失せさせ、いくぶん和やかな雰囲気になりつつあった。他の墓守たちも、萌葱の提案に反対することない。
 漆も椅子に座り直し、紅姫と十澄の方に席へ座るよう促す。

「そうね、わたしたちもまだ聞きたいことはあるし、席に着かれたら? 紅と同じ席で大丈夫でしょう?」

 その言葉を肯定するように、紅姫の席に浮く畳に二つの座布団が現れる。子どもの形をした紅姫と男性として細身な十澄なら充分にくつろげる広さがあった。
 根ほり葉ほり、十澄を質問攻めする気満々に見える同胞たちの様子に、紅姫は胸の奥から込み上げてくるため息を無理矢理呑み込んだ。すでにこれまでの会話で疲弊した紅姫には、遠慮しておきたい流れができつつあった。
 仕方があるまい、と紅姫が席に向かおうとした時。
 その手を軽く引いて、十澄が紅姫の歩を制した。

「景?」
「――うん、駄目だよ」
「どうしたのじゃ?」
「いや、だって……。十純、そろそろお昼寝の時間帯だと思うんだ」

 十澄の困ったような言葉に、紅姫は軽く目を見張る。次いで、すっかり頭から抜け落ちていた懸念を思い出して納得する。
 つまり十澄は、最近の紅姫の悪癖が出るのを怖れているのだ。紅姫を送り出す時も気にしていたように、突然ぱたりと気絶するように寝入ってしまう墓守として謎の症例が出るかもしれない。
 そしてそれは、紅姫が疲労を感じている時ほど顕著に表れる傾向にあった。

「そうであったな……。確かにもう、危ないかもしれぬ」
「うん。だから迎えに来たんだ」

 十澄はそう、小さく笑みを浮かべて頷く。
 その姿を尻目に紅姫は自然と浮かんでくる笑みをこらえ、円卓に集った同胞たちの方を見た。まず彼女たちを説得することが難題である。
 漆は何を考えているのか計り知れない、艶やかな笑みを湛えて小首を傾げる。

「どうかされて?」
「……漆、すまないが――」
「申し訳ありません。ぼくとしても惜しいのですが、今は十純も疲れているようなので帰らせていただきます。元より、十純を迎えに来ただけですので、お話はまたの機会にお願いします」

 紅姫が慎重に言葉を選でいる隙に、すらすらと十澄は口上を述べて頭を下げる。
 一瞬、唖然とした空気が辺りを支配した。
 その隙に十澄は腰を折り、いつも共に歩む時のように紅姫に片手を差し出す。紅姫にまっすぐ向けられた視線は穏やかだが、有無を言わせない強張りが見て取れた。
 ほぼ反射で十澄の手を取った紅姫は、表面に出されない彼の心配の大きさをやっと理解した。そこまで理解すれば、紅姫も彼の意思を尊重する。もとより、これ以上宴の間に留まる気も失せていた。

「ではわらわたちはこれで失礼しよう。皆の者、また次の宴会での」
「ってちょっと待て! いくら何でも薄情だろう」
「そうだよ、紅姉さん。もう少し一緒にいられないの?」

 はっと我に返った藤と瑠璃が引き留めるように、円卓に身を乗り出して声を上げる。
 紅姫はさらに断りを入れようとして、やや疲労で青白くなった頬を強張らせた。一瞬にして遠退いた聴覚に、漆と朽葉の声が曖昧に届く。

「あら、疲れているなら返して差し上げましょうよ」
「そうねえ、先に紅からは話を聞いていたのだから、良いのではなぁい?」

 ぱちぱちと瞬いた視界をぐるりと回すほど強烈な衝動。それに抗いきれずに、紅姫はこめかみに片手を当てて足元をふらつかせる。
 その異変に真っ先に気付いたのは、宴の間の喧騒を見ていた十澄だった。はっとした顔でその場に膝を突き、紅姫の顔をのぞきこんで息を呑む。

「十純!」
「ああ……、眠いのぉ」

 ぽつりと口を出た本音が異様に大きく宴の間に響いた。
 まるで人間の子どものように、体力を使い切った頃に押し寄せてくる眠気。十澄をわざわざ十二色の宴まで赴かせた懸念が、現実になろうとしていた。十澄が傍に居るのは幸いであるが、逆に十澄の顔を見たから心の緊張の糸が決壊したようにも思える。
 紅姫は力の入らない腕で十澄にすがりつき、困ったように眉根を寄せて言った。

「むぅ、すまない。景――あとは、任せ……る」
「十純! だから言ったのに……!」

 自分を抱き寄せる十澄の狼狽えきった声を耳にしながら、紅姫は遠くから強引な誘いを掛けてくる眠りに身を浸していく。急速に意識を闇の底へ落としていく中も、不思議と同胞たちの中に残す十澄への不安や心配はなかった。どうにか上手く、皆を取り繕ってくれるだろう。
 紅姫は何の憂いもなく、安心して眠りの縁に落ちて行った。