紅睡蓮の墓守邸

 すっかり皆の話題の種も切れる頃、紅姫は疲れの見える表情で脇息にもたれかかっていた。あれから矢継ぎ早に質問を繰り返され、皆の好奇心が満たされるまで付き合った結果、ずいぶんと疲労が重なっていた。普段、必要以上に話さない反動だろう。
 今でも、他の墓守はそれぞれ他愛無いお喋りや簡単な遊びで盛り上がっているが、紅姫はどれにも参加する気力がない。琥珀にならってこれ以上は傍観に徹したかった。
 そっと目を閉じて黙していると、耳に届く喧騒が遠退く気がする。紅姫は百五十年に一度の宴を歓迎しているが、やはりそれは年を空けて開くから価値がある。毎日この宴の喧騒に包まれていたいとは思えない。
 睡蓮邸は生き物の気配ぐらいしか、辺りに感じさせない森閑とした屋敷だ。紅姫がそうであるように願って、使用人たちもそれを尊重している。十澄と紅姫の関係も、その屋敷に沿うように穏やかさを保ち続けている。

(とは言え、景が来てからはいささか活気も付いたか)

 人は睡蓮邸で暮らすには弱すぎる生き物だ。やれ十澄が熱を出した、妖怪に襲われた、池にうっかり落ちたと最近では少なくなってきたが、周囲は冷や冷やしながら面倒を見てきたものだ。紅姫も何度肝を冷やしたか、数え知れない。
 だが十澄が睡蓮邸に来てから、使用人たちは以前より親しみやすくなったようだ。昔から忠義を尽くして仕えてくれていたが、どこか遠慮がちで主人と使用人の間の交流は少なかった。十澄の存在がゆっくりと睡蓮邸を変化させてきたのだ。
 あるいは、最も変化したのは紅姫かもしれない。

(まさか、時間を貴重に思う日が来ようとはのぅ)

 墓守にとって時間は無限に溢れるもので、今という時間を大切にすることはない。
だが人間にとっての時間は極めて有限だ。その時間を惜しむように、瞬く間に人間は成長していく。ついさっきまで幼子であった者が、気付けば三十路になっている。かつて紅姫が背を撫でて慰めていた子が、今では紅姫を心身ともに支えるようになった。これからも十澄は紅姫を置いて、成長し変化し続けるのだろう。
 たとえ、外見上の成長が止まっても。十澄が人であるからには、変化を止められない。

(それでも良い。わらわはそれを見届けるのみじゃ)

 親が子の成長を喜び、見守るように。紅姫もまた十澄の変化を受け入れる覚悟があった。片時も目を離さず、限られた時間を精一杯共に楽しみたいのだ。
 時間が限られているからこその、喜び。人が生まれ持った宿命であり、人外の者には縁のないそれを、紅姫は十澄から与えられた。
 紅姫はここ三十年で得た全ての変化を愛おしんでいる。墓守は数千年を生きながら変化を怖れる生き物だが、変化はそう悪いことでもないように思えた。不変でいるのは楽だが、決して幸せに繋がるとは限らないのだ。その逆もまた、白銀の例は表しているけれども。

「……行き付いてみなければ、何も分からぬか」

 そうつぶやいて、紅姫はまぶたを押し上げる。すっと夜の瞳を滑らせた先、“道”に繋がる十二色の扉の一角が、煌々と強い輝きを押し広げていた。
 新たな同胞の来訪を告げるのは、緑の扉だ。
 他の墓守も気付いたようで、自然と話し声は途切れて皆の視線が一点に集う。

「たっだいまぁ!」

 墓守たちが見守る中 元気よく“道”から現れたのは、緑を司る第六の墓守、萌葱姫である。萌葱はふんわりと深緑色の衣装をなびかせて、くるっとその場で舞って見せた。彼女は十二色の宴に出席するものの、よく屋敷と宴の間を行き来するのだ。何でも屋敷の料理がとても美味しく、一度でも食べ過ごせないらしい。
 萌葱に一番に声を掛けたのは、それまで置物さながらに黙していた桜だった。桜はその秀麗な眉を吊り上げて、一言鋭く叱りつける。

「お前はもう少し落ち着きが持てんのか、萌葱」
「あれぇ? 桜がいる! 久しぶりだね、元気にしてたっ?」
「……お前は相変わらずのようで、何より」

 萌葱はその叱責にこたえた風もなく、人懐こい笑みを浮かべてとことこと桜に近づく。桜も忌々しそうな顔をしているが、それは表面上だけだ。墓守の中でも、気難しい桜と天真爛漫な萌葱は何故か気が合うようで、十二色の宴ではよく一緒にいる。逆を言えば、桜は萌葱以外の墓守に進んで関わろうとはしない。それは紅姫の件に唯一、何も口出しをしなかった点からも明らかだ。
 そのまま、普段通り萌葱は桜に構い始めるかと思いきや、くるっと紅姫の方を見た。

「そうそう、忘れるとこだった。紅、あなたのとこの“道”が妙な感じに歪んでるよ?」
「なに……?」

 その場の全員の視線が紅姫の“道”に注がれる。
 萌葱の言葉通り、紅姫の“道”は内側から軋むようにたわんでいた。木造の閂を締めた門が、グギィと聞き苦しい悲鳴を上げている。
 誰もが目を見張って凝視する中で、紅姫はそっと笑みを浮かべて静かに席から立ち上がった。
 それを墓守の誰かが見咎め、怪訝な声を上げる。

「紅……?」
「ようやっと、来たようじゃ」

 その隠しきれない喜色の混じったつぶやきは、すっと宴の間に響き渡った。
 紅姫には“道”の異常の理由に見当が付いていた。だからこそ、胸の奥の脈動を高鳴らせて、期待に頬を朱に染める。それは色香さえ覗かせる艶やかな笑みである。
 茜色の振袖を払って、同胞の注目も無視して睡蓮邸に繋がる“道”に歩を進める。
 やがて紅姫はそっと小ぶりな手の平を、門を閉じる鉄の閂に添えた。その途端、がしゃんと音を立てて簡単に閂は外れる。ギギィと軋みを上げて門は外側に開かれた。それに合わせて紅姫も二歩ほど後ろに下がって、“道”を辿って来るだろう人物を待つ。
 ゆら、と“道”の奥に広がった闇色にうねりが見られた。
 次の瞬間。まるで闇から吐き出されるように、人影は飛び出て来た。

「わ、わ、わぁっ?」
「――景!」

 あまりに勢いよく出て来た影を、紅姫は両手をいっぱいに広げて受け止めた。それでも元の体格が違い過ぎて、紅姫はたたらを踏む。後ろに倒れなかったのは、ひとえに相手が必死で踏みとどまったおかげである。
 用事は済んだとばかりに“道”に続く門は勝手に閉じ、閂も油断なく締められる。
 その門前で、たった今十二色の宴に飛び入り参加してきた人影――十澄は、自分を抱き留めた小さな身体に半ばもたれかかるようにして、長い吐息を漏らしていた。
 十澄はそっと紅姫のかんばせをのぞき込み、苦笑混じりに告げる。

「まったく。……苦労したよ、十純」
「無事なようで何より」

 紅姫は目を細め、小さな子どもにするように十澄の栗色の髪をぽんぽんと撫でた。
 これには十澄も気恥ずかしげに眼を逸らす。

「“道”はどうであった?」
「正直、真っ暗でどちらに行っていいかも分からなかったから、困った。ずいぶん長いこと、宛てもなく歩いていたら、いきなり空間からこう……ぽいっと弾き出されたような感じ」
「ふむ、面白いのぅ」
「いやいや、あのままずっと迷っていたらどうするんだい?」
「その時はわらわが無理矢理迎えにいくだけじゃ。こうして無事なら何でも良い」
「……まぁ、そうだけどね」

 十澄はそれ以上の抗議を諦めた様子で小さく笑う。
 その見慣れた笑みに、紅姫は何か言い知れない安堵のようなものを覚えた。きゅっと十澄の身体を支える手に力を込める。そこにある温もりが当たり前になってから、まだ三十年も経っていないのが信じられない。
 今度は十澄も微笑を浮かべて抱き返し、ふっと何かに気付いた様子で小首を傾げた。

「……十純、ずいぶん――」
「紅、その者はどなた?」

 すっと通る声に言葉をさえぎられて、十澄は目を瞬かせて口をつぐむ。
 墓守の座する円卓の一角、漆がチーク木の椅子から立ち上がり、見定めるような鋭い眼差しを十澄に向けていた。宴の間は彼女に引きずられるように、異様な緊張感に包まれている。
墓守たちは皆、それぞれ好奇心や苛立ちの混ざった眼差しを十澄に向けていた。
 それを見て取った十澄は困ったような顔をして、紅姫に触れていた身体を離して立ち上がる。
 紅姫もすっと表情を改めて、同胞たちを振り返った。その顔には先ほどまでの柔らかな微笑は欠片も浮かんでいない。十澄をかばうように前に出て、紅姫は平然と言葉を発した。

「聞かずとも分かっているように、わらわには見えるがのぅ?」
「あら、まずは紹介を待つのが礼儀でしょう?」
「ものは言い様じゃな。――では改めて紹介しよう。この者が、わらわが選んだ人間じゃ」

 紅姫は微笑ひとつで簡単に紹介すると、首を斜め上に傾けて十澄と目を合わせる。
 それだけで十澄は紅姫の意図を理解したようで、ひとつ頷いて墓守たちを見据える。

「はじめまして。十澄景一郎と申します」

 十澄は伸ばし放題の栗色の髪をなびかせながら、ぴりぴりとした雰囲気を纏う墓守たちに頭を下げる。場所が畳の上なら丁寧に膝を突いて挨拶しただろうが、さすがに闇一色の地面に正座をすることはない。自分から行動する気はないようで、十澄は黙ってその場の様子をうかがっていた。
 だが十澄が名乗った後、微妙な雰囲気が宴の間を覆った。