紅姫が湯呑を置いたところで、ひょいっと小柄な少女が隣から身を乗り出してくる。青と白の縞々を描く、膝まで届く貫頭衣を身に付けた少し紅姫より年上の少女だ。青を司る第九の墓守、瑠璃姫はぱちぱちと目を瞬かせている。

「いかにした、瑠璃?」
「紅姉さんにしては珍しいね、その髪型」
「ああ……、今は結ってくれる者がいるからのぅ」

 紅姫はそっと口角を持ち上げ、綺麗に結い上げた髪に手を添える。今回は瑪瑙の玉簪を使って下げ巻に結ってある。例に漏れず十澄の手に寄るもので、ここ十年で十澄の髪結いの腕もずいぶんと上達していた。
 ほんの二十年前までは、誰も紅姫の長い髪を結うことができなかったため、いつも髪は下していた。紅姫自身、髪を結う必要性もあまり感じていなかったが、十澄は努力して人の世の流行を追っているようである。十澄が四苦八苦してまで髪を結ってくれることを紅姫も純粋に喜んでいた。
 少し自慢するように、紅姫は頬を緩めて瑠璃に問うた。

「それなりに、似合うであろう?」
「う、うん。それはもちろん」

 瑠璃は驚いたようにまじまじと紅姫を見つめる。

「ねえ……紅姉さん、何かあった? ちょっと変わったよね」
「そう見えるかえ?」
「だって、そんなによく笑ってたっけ?」
「わらわも人形ではない。笑うこともあるわ」

 くすっと紅姫はまた笑うが、それを瑠璃はさらに不審そうな眼差しで見ている。
 それは瑠璃だけではなく、集まった墓守たちのほとんどがそうだった。

「紅、何かございましたの? よろしければ、お話を聞かせて下さいな」
「面白い話題はもう出尽くしたからな、ちょうどいい」
 
朽葉と藤が興味津々といった様子で促してくる。
 実際のところ、墓守の日常は不変すぎて百五十年ぶりに会っても話題は尽きがちだ。さらに墓守は十二色の宴に仕事の話を持ち込むのを嫌う傾向にある。どんな客が訪れて、何が起きたのか、一番の共通事項の話題を避けるのだ。
 それは絶えず使命に追われているからこそ出来上がった、暗黙の了解である。
 紅姫は顎に手を当てて、どこから話したものかと思案する。

「ふむ、一言で済ますなら……わらわにも大切な者ができたのじゃ」
「いや、一言で済ますなよ。もっと詳しく!」
「妖ですの? それとも精霊? 悪魔ではございませんわよね?」
「朽葉、日本に悪魔はいないでしょう」
「――それで、どんな者なの、紅姉さん」

 一気に宴の間は騒然とした空気に包まれる。
 皆の期待と好奇に輝いた顔を見比べ、紅姫はもったいぶるような沈黙の後、簡潔に答えた。

「ただの、人間じゃ」

 その瞬間。――宴の間はぴしっと空気を凍りつかせた。先ほどまで詰め寄っていた墓守たちは一様に押し黙り、気まずさや苦々しさを感じさせる表情を滲ませている。
 あらかじめ予想していた反応とは言え、紅姫は込み上げてくる嘆息を呑み込んだ。
 永き時を過ごして来た同胞として、皆が何を憂えているのか分かっていた。それがまったくの杞憂でしかないことも。
 初めに沈黙を破ったのは誰にとっても意外な者だった。

「何故、人を?」
「……琥珀?」

 それまで円卓の片隅で黙していた茶を司る第四の墓守、琥珀姫が、感情の見えない瞳を紅姫に向けて来ていた。焦げ茶色の小袖に似た着物の上に黒の外衣を来て、頭には薄茶の布を被っている。本来男性用の衣装が、彼女をより抽象的に見せるのだ。
 琥珀は墓守の中でも寡黙で、ごく最低限のことしか話さない。全てを行動で示し、淡々と使命をこなしていく、誰よりも墓守の仕事に忠実な女性である。
 だから紅姫は今回も、沈黙を守って事態の推移を見守るのではないかと予測していた。

「人は、我らの歩みに付いて来られない。知らないわけではないだろうに」
「……人だからではないのだ」

 紅姫は夜の瞳を伏せて囁くように反論する。その脳裏には永きに渡る生の記憶が、ほの暗い感情と共に生々しく蘇って来ていた。
 そこに刻まれた感情の名は、全ての墓守たちが共有する――孤独。
 紅姫は遥か昔から延々と繰り返してきた失望を思い出して、ぽつりぽつりと墓守なら言葉にしなくても理解しているはずのことを語る。

「たとえ妖であっても、精霊であっても……皆、等しくわらわの下を去るのじゃ。それを見送るのが仕事ゆえ、仕方あるまい。確かに人間の寿命は身近く、わらわたちに寄り添うには弱すぎる。しかしそれは問題にはならん。……人でなくとも、皆去ってゆくゆえのぅ」
「……」

 しん、と重い沈黙が宴の間に落ちる。
 紅姫の言葉は真を突いていた。――妖も精霊も、人外の多くは果て無い寿命を持っているというのに、彼らでさえも安息を求めて墓守の下から去っていく。人間に限らず、墓守は何者からも置いて逝かれる運命にあった。
 だからこそ墓守は同胞との繋がりを大事にする。同じ立場に置かれた同胞ならば、自分を裏切ることも置いて逝くこともないからだ。遠く離れた地にいても、運命共同体であることに変わりはない。
 つまるところ、十二色の宴は墓守たちの傷の舐め合いにも似た集まりだった。
 そこへ、藤が唸るように低い声で紅姫に詰問した。

「お前も裏切られたら、どうすんだ?」
「白銀のことかえ?」
「ああ。人は簡単に、変わる生き物だろ」

 藤は心底から忌々しげに凛々しい顔を歪め、罵るように続ける。

「今日愛し合っていたのに、次の日には憎しみ合うような奴らだ。自分で言ったことも守らず、無責任に忘れて行く。あいつらは生きるも死ぬもあっという間で、そのくせ自分勝手に世界を引っ掻き回していきやがる」
「まぁ、変化の目まぐるしい生き物ではあるか」

 くすっと紅姫は十澄の姿を脳裏に思い浮かべて、無意識のうちに笑みを零す。
 あまりに場違いなその表情に藤は怪訝そうな顔をした。

「何だよ?」
「いや、少し思い出してしまった。……少し前までぴーぴー泣いておったあの幼子が、今では立派な大人じゃ。ほんに人の成長は早い」
「そんなこと誰も聞いてねえ……っておい、幼子? いつから、一緒にいるんだ?」
「ざっと三十年近いか」

 ちっと藤が外聞もなく舌打ちする。

「三十年? 人の寿命はもって五十年だぞ? あっという間に死んじまうな」
「本来ならばのぅ。あの者は、きっと百年後も生きておるよ」
「はぁ?」

 藤は理解できないとばかりに、素っ頓狂な声を上げる。
その抗議が口の端に上る前に、朽葉が小首を傾げて尋ねた。

「人ではございませんの?」
「いや、種族としては人じゃ。ただわらわの傍に居すぎたのか、ここ十年身体の成長が止まってしまっておる。きっと、寿命も延びておろうなぁ。最近は妖の毒や妖気にも耐性ができたようじゃし、ほんに人の適応力には目を見張るわ」

 紅姫は目を細めて何でもないことのように語るが、他の墓守たちは揃って半信半疑のようだった。
 でも、と全員の疑念を代表するように瑠璃がつぶやく。

「そんなことってあるの? だって白銀姉さんの時だって人間は先に逝ったわ。白銀姉さんがどれだけ、あれのせいで苦しんだか、紅姉さんだって知ってるでしょ」
「白銀のことは、わらわもよく弁えておる。それでも白銀の時とわらわの場合は異なるはずじゃ」

 この時、墓守たちの脳裏によぎったのは白を司る第二の墓守、白銀姫の姿だった。もう千年近く十二色の宴には顔を出していない彼女は、千年ほど前に起きた悲劇のせいで、墓守の使命も果たせないほどに狂ってしまった。
 この場に集った七名の墓守はかつて白銀が狂った姿を直に目の当たりにしていた。そのために過剰に人間を忌み嫌い、紅姫の言葉を安易に信じることができない。かつての白銀もまた、紅姫と同様に傍に置いた人間の弁護をしていた。

(わらわとて、考えなかったわけではない)

 千年経っても、紅姫の記憶から白銀の哀れな姿は焼き付いて離れない。
 白銀は誰よりも繊細で優しい墓守だった。だから彼女は偶然にも屋敷に迷い込んだ人間を、手厚く保護した。人間の世ではお家取潰しの憂き目に会い、行く宛てのない憐れな男だった。白銀はその人間を屋敷に住まわせ、彼女たちはゆっくりと情を交わしていった。
 永き時を白銀姫に寄り添う、とその人間が誓いを立てたのは必然的な流れだったに違いない。

(幸せそうであったのにのぅ)

 当時の十二色の宴で、白銀はその人間のことをそれは嬉しそうに話していた。かつてと比べようもなく生き生きとした姿に、墓守たちは羨望と祝福を向けたものだ。誰もが白銀のその幸福がずっと続くと疑いもしなかった。
 しかし、現実はそんなに甘くはなかった。