ゆらり、と無機質な暗闇にたゆたうものがあった。そこでは明確な距離も広さもなく、物質さえも幻と同じ価値しか見出されない。広大な世界の前では、その空間はただそこにあるだけの空虚な穴のようなものでしかなかった。
 ただし、現実世界の時間にして百五十年に一度だけ、そこは特別な変容をきたす。世界から断絶された空間をこじ開け、唯一にして貴重な場所に成り変わるのだ。そのためだけに全てが在って全てがない、この幻のような空間は存在している。
 ゆらり、ゆらゆらと深海の重たい海水のように闇は揺れて。突如として、そこに十二種類におよぶ色彩を灯らせた。まばゆいばかりに空間を照らすそれらは白、黒、赤、青、紫、橙、黄、緑、茶、黄緑、桃、紺の色合いを煌々と主張する。
 徐々に暗中に灯った色彩は輝きの強さを落とし、やがて輝きの中にそれぞれの出入り口を作り上げる。それは素っ気ない木戸や絢爛豪華な彫刻入りの石扉、細かな刺繍入りのカーテンを取り付けた窓や錠付きの門など種類は様々だが、すべて現実世界とその空間を繋げる出入り口であることに変わりはない。
 やがて十二の扉のうち、三ヵ所がそれぞれの軋みを上げて内側から開かれた。その色彩は黒、紫、橙の三色で、ほぼ同時に内側からの訪問者が姿を見せる。外見年齢や衣装はことごとく異なるものの、三人とも女である。
 初めに動きを見せたのは黒の扉から現れた妙齢の女性だった。長く艶やかな黒髪を無造作に足元まで伸ばし、透明な漆黒の長い布を腰や肩にまとわりつけた衣装を着ている。女性は片手を頬に当て、他の二人を見つめてため息と共に零した。

「あらぁ、今回は三人だけなの? 少ないわねえ」

 その言葉に、紫と橙の扉から現れた二人も反応を見せる。

「まだまだ始まったばかりではございませんの、漆(うるし)お姉さま」
「気が早いんだよ」

 ふふっと上品に笑むのは橙の扉から現れた西方の貴婦人だ。Aラインにふんわりと膨らんだ淡い朱色のドレスを着て、その両手には白い手袋が嵌められている。歳の頃は十代の後半といったところで、そのたおやかな微笑が他者の目を引く。
 その隣に並んだ紫の扉から現れた女性は、深紫色のベストにゆったりしたズボンという男性衣装を着ている。少し苛立たしげに掻き上げられた髪は肩に掛かる程度の長さだ。凛々しい顔立ちをしていて、鋭い刃物を連想させる女性である。
 漆お姉さま、と呼ばれた漆黒の女性は二人に艶然とした笑みを向ける。

「そうねえ、皆が集まるまで座って待ちましょうか。朽葉と藤もいらっしゃい。わたくしがお茶を入れるわ」
「ぜひ、ごちそうになりますわ」
「……暇つぶしにはちょうど良いだろ」

 漆がすっと歩み出た先には、いつの間にか巨大な白色の円卓が現れていた。それぞれ座布団や木椅子などの座る場所が暗闇に浮かび、その主人を待っている。漆は背もたれにクッションの付いたチーク木の椅子のある席に向かい、円卓に用意されていた茶器に手を掛ける。
 朽葉と呼ばれた貴婦人と藤と呼ばれた男装の女性も、漆に続いて自分用に設置された椅子に座る。朽葉は音も立てずにそっと優雅に腰掛け、藤はがたんっと乱雑に木椅子に座る。
 しばらく、三人の間に不思議な沈黙が流れた。それぞれが何かを待つように、自分の作業と瞑想にふけっている。
 不意に漆が茶器から手を離し、顔を上げた。その視線は離れた箇所に煌々と浮かぶ出入り口に向けられている。

「……来たようねえ、もう一人分お茶を作らなくては」
「萌葱(もえぎ)か、遅れて来るなんて珍しいな」
「そうでしょうか? 前回も遅れて来られた気がいたしますが」
「そうだったっけ?」

 三人がそれぞれ視線を向けた先、緑の扉からちょこんと小さな少女が現れた。明るい深緑色のふわっとした裾が胸下から広がる装束姿だ。ぱちぱちっと瞬きする瞳はぱっちりと丸く可愛らしい。 
 少女、萌葱は先に席に着いた三人を認めるとぱっと明るい笑みを浮かべた。とことこと駆け足でテーブルまで寄ってきて、快活に挨拶をする。
 他の三人もそれぞれ表情を緩め、それを受け入れた。

「久しぶりっ、みんな早いね!」
「お前が遅いんだよ」
「お久しぶりでございますわ」
「今お茶を出すから待っていてちょうだいね」

 萌葱は乳白色の床が広がった自分用の席に、片膝を立てて座る。ふんわりと深緑の裾が仮想の床に広がって、すっと伸ばされた背筋は曲がることなく姿勢が良い。
 それからも四人の間に新たな会話が始まることはなかった。ふんふんふん、と萌葱の鼻歌が空間を軽快に跳ね回るが、他の三人は何も言わず、先ほどと同じような姿勢でただ座っている。
 少し経つと漆のお茶も出来上がった。どこから現れたのか、茶菓子まできちんと添えられている。

「ほら、皆さま召し上がれ」 

 漆の一言で、ささやかな御茶会が始まった。だが相変わらず、萌葱の鼻歌と茶器に触れるかすかな音以外は空気を震わせない。
 暇つぶし、と藤が称したように、それは四人にとって他の空席の主たちを待つためのものでしかなかった。空席がもっと埋まらない限り、この空間に集まった者たちは本題には決して入らない。
 当初とは性質の異なる静けさと温もりが、幻に類似した空間を支配し始めていた。


 まだ、百五十年に一度の宴は始まらない。