ひらり、と複雑な軌跡を描きながら桃色の花びらが、筋張った手の平に舞い落ちた。湿り気を帯びた花びらは、外見の儚さに反してしっかりとした感覚を訴えてくる。
 きゅっと花びらを握り締め、恭二郎は傍らに立った桜の花びらに似た人に視線を向けた。
 同じように桜の大木を見上げていた景一郎も、恭二郎の視線に気づいた様子で振り向く。ふわりと恭二郎に向けられた漆黒の瞳が和らいだ。
 恭二郎は何でもないと無言で首を横に振って伝える。
 快晴の青空はゆっくりと確実に輝きと色彩を落とし、辺りは暗闇の支配する時間帯へ移ろい始めている。通りを歩く人々も家路を急ぎ、視界に入る店は戸締りの最中だ。あと数刻も経てば、完全に世界は夜の帳を巡らし、人々は早い眠りに落ちるだろう。
 恭二郎たちは、昼ごろから街中を歩き回り、最後の締めとばかりに桜の大樹の下に戻って来ていた。初めは茶屋などでくつろいでいたが、途中から十年ばかしで様変わりした街中を散策する形になった。その間、たくさんの話を二人は交わした。
 もう、兄弟が別れて十年以上が経った。お互いにしがらみやわだかまちを失い、ようやく今になって話せることはたくさんあった。生まれた時から穿たれていた兄弟の深い溝は、この日確かに触れ合えるほど近くまで縮んでいた。
 一日はあっという間に過ぎ去り、また二人に別れが訪れようとしている。この半日のみ、交差した二人の道はまた別々の方向へそれぞれ分かたれている。――次に交差する日は、今度こそないかもしれない。
 それでも恭二郎は満足していた。もっと景一郎と話したいことも、見せたいものもあったが、互いに気兼ねなく意思を通わせられた今日と言う日が、とても貴重なものと理解していた。
 かつては決して横に並び立てなかった肩を見つめ、恭二郎は苦笑を浮かべる。

「わたしはずっと、兄上の背ばかり追って来ました。でも……今日、少しだけ、追いつけたように思います」
「何を言っているんだか。お前はとっくに、ぼくなど追い抜かしているだろう?」
「そうだと嬉しいですが」

 景一郎は本当に不思議そうに目を丸くしている。
 それは本心からの言葉だろうが、やはり恭二郎はまだその背を追っているのだ。本人がどう言おうと兄は次期当主として立派な人だったと恭二郎は認識している。いつになっても追いつけない気がするのは、恭二郎の主観の問題であり、他者がどれほど恭二郎を褒めても解決しない話である。
 恭二郎が家主として、十澄家の当主として立つ時、いつでも思い浮かべるのは兄の背だ。それは時に父のものにもなるが、優秀な兄ならどう対応したか、つい考えてしまう。長年の間に思考に染みついた癖だった。
 そんな恭二郎の思考などまったく知らない景一郎の様子に、ついおかしくなって笑う。

「――兄上、貴方は信じないかもしれませんが……私はずっと、兄上に憧れていたんですよ」
「……そう言ってくれると嬉しいよ」

 まるで信じていない景一郎の様子に、さらに苦笑が零れた。
 ことこの点においては、一生涯理解を得られなさそうである。景一郎は自分が残した実績も、その非凡な能力も誇ることをきっと知らないのだ。誰にも評価されないがために、自分の価値を理解していないのだろう。
 恭二郎はどれほど語っても平行線になりそうな話題を変え、ことさら明るく問いかけた。

「次は、いつ会えますか?」
「うーん、また甥か姪でも生まれた時に」
「そうですか。今度は約束、破らないでくださいよ」
「善処するよ」
「……そこで絶対、と言わないところが兄上ですね」

 景一郎は決して自分のする気のないこと、できないことは口にしない。かつて十澄家の嫡子として自分の言動に責任を持つべき、という意識が常に根底にあったようだ。十澄家を出奔した今でも、不確かなことを確約する気はないようだった。
 恭二郎は呆れるほど頑固な兄の一面を見た気がして、また笑った。
 それを景一郎は小首を傾げて眺めている。

「いつも、お前は笑っているね」
「ええ。その方が都合のいいことが、多かったので」
「そうか。ぼくとお前は、本当に真反対だった」
「似てない兄弟だと昔から言われていましたし」

 幼い頃、景一郎は表情を消すことで他者からの悪意を呑み込み、耐えていた。その逆に、恭二郎はにこにこと笑みを絶やさないことで他者の悪意から自分を守っていた。可愛らしく笑っていれば大抵のことは円滑に解決したものである。
 無愛想な兄と愛想の良い弟。まるで目に映るすべてが真反対な兄弟を、誰もが似ていないと評価した。本人たちも、そうだと認めている。
 だが景一郎はふっと笑みを浮かべ、思い出すように眼差しを遠くした。

「でも、彼女はぼくらがよく似ていると言っていたよ」
「義姉上が?」
「ああ。……笑った表情や雰囲気は、そっくりだって」
「……なるほど」

 恭二郎は目をぱちくりさせて、納得の入った顔をする。
 昔なら一笑に付したはずだが、今なら何となく紅姫の言が理解できた。かつては景一郎の冷笑や苦笑しか知らなかったが、今のように柔らかく笑みを浮かべる姿は見れば、確かに自分と共通するところがあるかもしれなかった。
 時には血の繋がりすら疑われたものだが、今なら兄弟に見られるかも分からない。その場合、外見年齢のせいで兄と弟の立場は逆転することだろう。いかんせん、景一郎の外見は十年前からさっぱり変化していないから、仕方ない。
 しかし、いまさら他者の目を気にしようとも思わないのだった。
 恭二郎はいよいよ茜色に暗がりが混じり始めた空を一瞥し、少し息を潜めるようにして、今日一日ずっと話そうと胸に潜ませていたものを吐き出した。

「こんな話、兄上は聞きたくないかもしれません。でも話しておこうと思います」
「改まってどうした?」
「……父上は、兄上が失踪されて老けられました。最近では体調も崩され、医者も長くないだろうと言っています」
「それ、は……本当か?」

 ひゅっと景一郎は息を呑み、顔色を悪くする。
 その様を慎重に窺い、恭二郎は話を続けた。兄から手紙を受け取った時から、話さなければと考えていたが、父に関することだけに話し辛かった。決して父と兄の仲は良好ではなかったから。
 恭二郎は脳裏に急激に痩せ細り、老け込んだ父の姿を思い浮かべる。

「私が家督を継いですぐに、父上は仕事を退かれました。もう、五年も前の話です。それ以来、元から不調気味だった体調はさらに悪化しました。まだお迎えが来るには早い年齢ですが、覚悟はしておいた方がいいと言われています」
「……そうか、あの父上が」
「意外でしょう? 父上は厳格で、丈夫な人でしたから」
「ああ。長生きするだろう、と勝手に思っていた」

 景一郎は感慨深そうに複雑な表情で嘆息を零した。
 恭二郎も詳しいことを伝える気はないが、父は景一郎の出奔騒ぎから急に意欲を失くしたようだった。ほとんど兄弟に干渉せず、静観を貫いた威厳漂う当時の父はもういない。最近は床に就いて起き上がらない父は、何も言葉にしないが、あれで景一郎を気に掛けていたのかもしれない。
 同じ家に三十年、一緒に住まう恭二郎にも父の真意は見えない。
 恭二郎以上に父のことを理解できない景一郎は、眉間にしわを寄せて難しい表情をしていた。

「とにかく。父上と和解をしてほしいとは言いません。それが簡単に成るほど、兄上たちの確執は浅くないでしょう。……ですが、もしもの時だけは来ていただけませんか」
「……分かった。どれほど確執があろうとあの人がぼくの父であることに、変わりはない。父の死に目にくらい、立ち会わないほど薄情ではないつもりだよ」

 すんなりと引き出せた了承に、恭二郎はそっと息を吐く。
 そう遠くはない時に親子の別れは訪れるだろう。親子の和解が成ることは決してないだろうが、今のままで良いとは恭二郎も思っていなかった。そうでなくては、景一郎にも父にも遺恨ができそうだった。
 しばらく沈黙が落ち、景一郎が空を仰いでようよう口を開いた。

「そろそろ、ぼくは帰るよ。あまり、お前の帰りが遅くなってもいけない」
「分かりました。……今後は報告のひとつ、送ってくださいよ」
「ああ、必ず手紙を送るよ」

 恭二郎が念を押すと景一郎は苦笑して頷く。
 これまでは兄の近況はまったく分からず、音信不通状態だったが、今後は定期的に知らせを送るよう約束を取り付けていた。手紙は今回のように、恭二郎の書斎に届けられる手筈だ。恭二郎の方も、手紙を書斎の窓際に置いておけば景一郎の下に届くらしい。摩訶不思議な連絡方法だが、詳しいことを尋ねるつもりはない。
 恭二郎は確約を得て満足げな笑みを浮かべ、表情を改めた。

「それでは兄上、――また今度」
「ああ。また近いうちに」

 二人は目を細め、よく似た穏やかな笑みを交わした。
 そして兄弟は再会を約束して別れを迎える。
 景一郎は軽く片手を挙げ、気軽い笑みのまま踵を返した。その背は昼間に再会した時のように、川沿いの大通りへ歩いて行く。軽く散歩に行ってすぐに帰ってきそうな、そんな背中だった。
 恭二郎は昔に返ったような気分で、じっと兄の背を眺めていた。不意にぐっと胸に来るものがあって、衝動のままに声を上げる。

「兄上!」
「……うん?」

 不思議そうな表情で、景一郎が振り返った。
 恭二郎はくしゃりと泣きそうに顔を歪め、それでも笑顔で声を張り上げた。

「今度は私の妻と子にも会ってください!」
「そうだね、ぼくも彼女を連れて行くよ」
「はい。私も義姉上に会いたい」
「それじゃあ、また」

 今度こそ、恭二郎は人ごみに紛れて行く兄の背を無言で見送った。
景一郎は特徴的な外見をしているにも関わらず、不思議とその背は簡単に景色に溶け込んで、長く目で追うことは難しかった。はっと恭二郎が気付いた瞬間には、ふっと夢でも見ていたかのように兄の姿は視界から消えていた。
 恭二郎は目を瞬いて、川沿いに広がった街並みを凝視する。だが陰影の濃い景色の細部は不明瞭で、昼間のように遠くまでは見通せない。そこにまだ兄が歩いているのか、もう去ったのかも、判然としなかった。
 恭二郎は名残惜しげに眼を細め、ぽつりとささやく。

「――また、会いましょう。兄上」


 それを向けるべき人はすでにいないが。
 ただ、口にすれば願いは必ず叶う気がした。