「兄上!」
「っ……十純!? 風切姫と鬼丸まで……」

 ばっとこちらを振り返った景一郎は目を見開き、唖然とした顔で立ち止まった。
 まるで別人のように感情豊かな景一郎の姿に、恭二郎は新鮮な気分で小さく笑う。兄から一本取った爽快な気分とそれを引き出したのが半ば以上紅姫の存在であることに寂しさも感じた。
 しかし、心のうちは一切表に出さず、恭二郎は平然と景一郎に近づいた。

「兄上、こちらが大事だと言っていた御友人でしょう? 家に来られたので、案内して来ましたよ」

 そう、手の平で紅姫を指し示す。
 恭二郎が彼らをここまで案内してきたと言うのは虚言だが、紅姫との会話を景一郎には知られたくなかった。その意図を紅姫も汲んでくれると奇妙な信頼があった。恭二郎は景一郎を案じる自分の気持ちを景一郎に知らせたくなかった。その時期ではない、と心のどこかで感じるのだ。
 景一郎は戸惑いに満ちた表情を紅姫に向けていた。

「……十純?」
「何じゃ、子どもの頃のような顔をしおって」

 紅姫の言う通り、まるで途方に暮れた幼子のような不安定な表情を景一郎は見せていた。
 恭二郎はそんな景一郎の姿を過去に見た覚えはないが、長い付き合いの紅姫には見慣れた姿であったようだった。彼女の一言で、どれほど景一郎が実家で自らを守るため、感情を押し殺して来たか、痛切に理解できた。
 傍まで来た景一郎に、紅姫に続いて小鬼や透明の少女も声を掛ける。

「あらまぁ、ろくろ首にでも化かされたみたい顔ね」
「急にお訪ねして申し訳ありません、十澄様。連絡が取れなかったものですから、恐縮ながら弟君のお手を煩わせていただきました」

 ぺこりと小鬼が頭を下げ、透明な少女はさもおかしげに笑っている。
 かまわないよ、と戸惑い混じりに返す景一郎の声は幾分柔らかかった。

「……界渡りは?」
「これからじゃ」
「どうして、ここに?」
「まぁ、何と言うか……」

 紅姫が形の良い桃色の唇を艶然と曲げた。
 恭二郎はじっと彼女と兄の会話を見守る。彼らの間には他者の侵せない親密な空気が流れ、また互いに向き合う姿が不思議と一対の番人形のようにしっくり馴染んで見えた。

「ここはひとつ、年性もなく可愛らしい我が侭を言ってみようと思ってのう」
「我が侭?」
「聞いてはくれぬか?」
「それは……ぼくにできることなら、何でも」

 動揺に揺れる景一郎に、紅姫はふっと笑って小さな手を差し出した。
 そして凛と澄んだ力強い眼差しで、彼女は言葉と共に景一郎を射抜く。

「わらわにお主をくれぬか?」
「……何だって?」
「考えたのじゃが、やはりお主と離れるのは惜しい。わらわは景が欲しいのじゃ。
――だから、わらわと共に来い」

 かっと景一郎は頬を朱に染め、最高の口説き文句を前に落ち着かない態度を見せていた。
 恭二郎にも明確な兄の返答を耳にせずとも、その態度から返事は簡単に見当がついた。あらかじめ判っていたことだが、景一郎が紅姫の手を振り払うことは万が一にも有り得ない。
 目の前で微笑ましくもじゃれ合う二人を眺め、恭二郎は無意識の内に悲しげに笑っていた。
 誰の目を憚かることなく、無邪気に照れる景一郎の姿。ありのままの景一郎の姿は、これまでも今後も、恭二郎に向けられることはない。そうさせたのは恭二郎であり、兄弟の環境である。それがただただ、悔しくもあった。
 だが紅姫を妬む気持ちはない。これで良かったと満足する気持ちの方が強かった。
 しばらくして、いよいよ話が纏まった様子で、景一郎の視線が恭二郎に向けられた。心なしか、その瞳は涙に潤んでいるようだ。
 恭二郎は意識してにこにこと笑みを崩さず、景一郎を見つめ返した。

「……恭二郎」
「はい、兄上」

 景一郎は言葉に迷った様子だった。
 それは恭二郎にとってよく見慣れた姿で、いつものように恭二郎から声を掛けた。

「行かれるのですね、兄上」
「ああ」
「では、あとのことは任せてください。兄上と義姉上の幸せを祈っています」
「あ、義姉上!?」
「え? 違うのですか? そちらの方が兄上の御友人で、想い人では?」

 わざと恭二郎はきょとん、とした顔をして見せた。そんな風に景一郎をからかうのは初めてで、慌てふためく姿を目のするのも初めてだった。
 今生の別れを暗いものにする気は、恭二郎にはまったくなかった。
 ふと景一郎が表情を改めた。すっと厳しいものが宿り、瞳には暗い影が落ちた。

「すまない」

 その端的な謝罪に、どれほどの想いが込められているのか、理解しているつもりだった。
 景一郎の去った後に恭二郎が継ぐ重荷への負い目、現実から勝手に逃げ出す罪悪感。おそらく景一郎が感じているはずのそれらは、恭二郎にも簡単に想像がついた。
 だがそれは、恭二郎の欲しい言葉ではない。だから困った顔で苦言を呈した。

「兄上。どうせなら、お礼が欲しいのですが」
「それもそうか。――ありがとう、恭二郎」
「ご達者で、兄上」

 この時、初めて恭二郎は曇りのない景一郎の笑顔を見た。それを自分に向けてくれたことが嬉しくて、恭二郎も心からの歓喜と共に笑みを返した。
 しんみりとした雰囲気を破ったのは、野太い聞き覚えのある怒声だった。景一郎の名を呼ぶそれは兄弟の父のものである。何事にも動じない父の珍しい怒声が、何故かおかしかった。
 恭二郎と景一郎は互いに苦笑を交わし、最後の挨拶をする。

「それじゃあ、恭二郎。……結婚式くらいには顔を出すよ」
「さようなら、兄上」

 そう、言葉を交わした直後。ぶわっと突風が計ったように吹き上げ、景一郎たちの身体を取り巻いた。ふわりと彼らは宙へ浮き、一瞬にして雲一つない快晴の空へ連れ去られて行く。
 恭二郎はあっという間に小さな空の黒点になった景一郎たちを、じっとその場で見送った。景一郎もまた、こちらを見ていてくれる気がした。
 いつまでも名残惜しくそこで大空を仰いでいたかったが、そういうわけにも行かない。父の声と複数の足音が徐々に近づいて来ていた。父たちに見つかる前に恭二郎もこの場を離れなければならない。実家にいるはずの恭二郎がこんな場所にいては、景一郎の失踪と相まって不審すぎる。
 碧空から視線を剥がし、足早にその地を離れた。恭二郎の脳裏に焼き付いた、最後の景一郎の笑顔がいつまでも消えなかった。


 その後、景一郎が足跡も残さずに失踪したことで、見合いは当然のごとく中止となり、十澄家は蜂の巣を突いた大騒ぎに発展した。あまりに見事な失踪劇に、神隠しの説も論じられたほどだ。十澄家の嫡男の失踪は思いの外、有名になり、長いこと捜索がなされたが、誰の目撃証言も得られずに打ち切られた。
 恭二郎が正式に十澄家の跡継ぎとして立ったのは、景一郎の失踪から約二年後となった。
 これ以降恭二郎の生活は激変し、見合いで友好関係に罅の入った相手方の家との関係修復や意中の女性との恋愛、結婚など、ひと波乱も二波乱もあったが、それはまた別の話である。