咄嗟に恭二郎は紅姫の言葉を理解できなかった。強い戸惑いの眼差しを紅姫に注ぎ、絶句したまま小首を傾げる。その様は本人の自覚こそなかったが、景一郎のそれとよく似ていた。
それを見た紅姫は小さく苦笑し、言葉を重ねる。
「特殊な事情があっての、わらわは遠くへ行かねばならん。おそらく、そうなればお主の兄君とは二度と会えんじゃろう。……しかし、わらわはあの者の手を離したくない。わらわも、あの者も、もはや互い失くして成り立たぬ。どうか、お主の兄君を遠き地に連れて行くことを、許されたい」
「……そういう、ことですか」
恭二郎は紅姫の話を聞いて、静かに瞑目した。今朝方、見合いに出かけた景一郎の背が脳裏に想い浮かんだ。いつも以上に触れ難く、そして恭二郎が何年も見続けてきた拒絶的な背。とうとう恭二郎はその背が自分を振り向くところを、見ることができなかった。目に見えない傷を背負ってぼろぼろの体で突き進む景一郎の背が、幻想された。
そっとまぶたを開き、恭二郎は紅姫に悲しげに微笑んだ。紅姫と会ったのは初めてだが、影から景一郎を支える彼女の存在はずっと知っていた。ひそかに彼女の存在を羨み、感謝もしていた。彼女と景一郎が共に在って欲しい、と願っていた。
(だから、異論なんてあるはずがない)
「事情は分かりました。しかし何故、私に断りを入れに来られたのですか? それは弟のわたしではなく、父に物申すべきことでは?」
「本来ならそうすべきじゃろう。しかして、お主の父君はそれを許されるお方か?」
「いいえ。決して許されないでしょう」
「そう。ゆえにわらわは景一郎を連れ去りに来た。お主に断りを入れるのは、お主があの者の幸せを望んでいてくれると思ったからじゃ。――仲良き兄弟を引き裂き、景一郎の跡を継ぐお主に詫びの一言も入れねば、道理に合わぬ」
「なるほど」
恭二郎は納得して頷き、彼女の律儀さに感謝する。もし前触れなく景一郎が姿を消せば、恭二郎は心配に胸を痛めるだろう。何年経っても、景一郎の捜索を諦めきれなかったに違いない。周囲とて跡継ぎの失踪に騒ぐだろうが、それは時間が解決する程度の問題だった。
道理を通しに来た少女を見下ろし、恭二郎はふっと微笑して言った。
「――どうぞ、兄上をお連れ下さい。義姉上」
「む……義姉上とな? わらわとお主の兄はそんな関係ではないが……」
「そうなのですか? では、本当にただの御友人ですか?」
「むぅ、友人……とも異なろう。じゃが、義姉上とはまた面白き響きであるな」
「不躾でなければ、そう呼んでもよろしいでしょうか」
「お主もこだわるな。……良い、呼び方はお主に任せよう。わらわとあの者の関係が、伴侶に似ていることもまた真実ゆえ」
紅姫はおかしそうにくすっと笑みを零す。
それを見た恭二郎は少し安堵したような不思議な気分で、嬉しそうに笑った。
「しかし、わらわが言うのも難だが、良いのか?」
「はい。……兄上はもう充分にこれまで頑張ってこられたと思います。これ以上、兄上が家に縛られて辛苦に耐えるばかりではいけない。それでは兄上も、誰も幸せになれない。
義姉上、貴方が長年、兄上の支えであったことを知っています。だからどうか、これからも兄をお願いします。兄上は、幸せにならなければならないのです」
そうでしょう、と恭二郎は強く同意を求める。
紅姫は水面を思わせる澄んだ瞳を細め、どこか嬉しそうに小さく口角を上げた。
「お主の想いは理解した。じゃが、それはわらわにではなく、景一郎に言うてやれ。それだけお主に想われていたことを、あれも理解できよう」
「……そうですね。わたしも、いつか兄上と腹を割って話してみたい」
恭二郎は少し困ったような顔で、頷いた。
長いこと願って来たそれは、まだ叶いそうにない。兄弟の間に穿たれた溝は深く、いまだに全てを失くすには至っていない。景一郎の本心を知ることは、恭二郎がどれだけ耳をそばだててもまだ難しかった。そして景一郎が紅姫の手を取ったなら、その機会はまた遠くなるだろう。
紅姫はじっと恭二郎を見つめ、すっと手を差し出した。
「それでは参ろうか、弟殿」
「どこへ……?」
「無論、お主の兄の下へ」
「っ……わ!?」
きょとん、とした顔で恭二郎は紅姫の小さな手を見つめた。次の瞬間、ぶわっと突如風が舞い上がり、反射的に両手を顔の前に出して身構える。それほど強く感じなかった風が、恭二郎の身体を掬い上げ、宙に放り出した。
足場のない未知の感覚に顔を引き攣らせ、恭二郎は声なき悲鳴を上げる。混乱したまま周囲に視線を向ければ、何でもない顔で紅姫が傍に浮いていた。その背後には小鬼と透明な少女もおり、透明な少女の方は何やら風を操っているようだった。
ぐい、と手を強く引かれて恭二郎はそちらを見た。いつの間にか、紅姫が恭二郎の手を取り、不安定に浮かぶ恭二郎の身体を支えていた。
紅姫は苦笑を浮かべ、安心させるように言う。
「そう驚くでない。大丈夫じゃ、お主を害すことはせん」
「っ……そういう問題ではっ」
ない、と恭二郎が否定する前に風の向きが変わり、身体が勝手に方向転換する。その拍子に危うく舌を噛みかけ、慌てて口を閉ざして歯を食いしばった。こうなれば、紅姫と繋がった手だけが唯一の支えである。ぐっと力を込めて握り返せば、紅姫の苦笑が深まった気がした。
恭二郎は込み上げてくる原始的な恐怖に盛大に顔を歪ませ、ぎゅっと目を閉じた。足元を見下ろせば、通常目にできない見事な街並みが拝めたが、それを堪能できるだけの余裕はなかった。
しばらくして、恭二郎が足元のない不安定感に慣れ始めた頃、風の勢いが緩やかに衰え始めた。
恭二郎は恐る恐るまぶたを上げ、すぐ真下に見えた建築物に目を瞬かせた。ちょうど景一郎と父が赴いているはずの、見合いの会場である。今回の見合いを取り持つ、仲人役の持つ敷地に建つ立派な日本家屋だ。
それなりに実家とは距離が離れていたはずだが、この短い間に移動したようだった。束の間、中空にいる恐怖を忘れて真下の光景に呆ける。
その間に風はゆっくりと速度を落とし、恭二郎たちを建物の外壁の向こうへ降ろした。ふわっと優しい風に包まれながら地面に降り立ち、大地の感触を足の上に踏み締めて、恭二郎は大きな安堵にほっと息を吐いた。
せめて、この道の移動方法に移る前に一言断りを入れて欲しかった。
そう、紅姫に苦言を呈そうとした恭二郎は、隣に同じように降り立った紅姫がまっすぐに別の方向を見ていることに気付く。その視線の先を辿り、ああと恭二郎は納得の入った顔をした。
ばたばたと騒々しい音が外壁の奥から聞こえてくる。それは徐々に近づき、白亜の壁を辿った先に据え置かれた門がばんっと騒々しい音を立てて開かれた。外へ、紋付袴の正装姿の景一郎が飛び出してきた。何やら、とても焦った様子で恭二郎たちと真反対の方向へ走り出そうとする。
恭二郎は普段とは異なり、感情を表に晒す景一郎に咄嗟に声を掛けていた。
それを見た紅姫は小さく苦笑し、言葉を重ねる。
「特殊な事情があっての、わらわは遠くへ行かねばならん。おそらく、そうなればお主の兄君とは二度と会えんじゃろう。……しかし、わらわはあの者の手を離したくない。わらわも、あの者も、もはや互い失くして成り立たぬ。どうか、お主の兄君を遠き地に連れて行くことを、許されたい」
「……そういう、ことですか」
恭二郎は紅姫の話を聞いて、静かに瞑目した。今朝方、見合いに出かけた景一郎の背が脳裏に想い浮かんだ。いつも以上に触れ難く、そして恭二郎が何年も見続けてきた拒絶的な背。とうとう恭二郎はその背が自分を振り向くところを、見ることができなかった。目に見えない傷を背負ってぼろぼろの体で突き進む景一郎の背が、幻想された。
そっとまぶたを開き、恭二郎は紅姫に悲しげに微笑んだ。紅姫と会ったのは初めてだが、影から景一郎を支える彼女の存在はずっと知っていた。ひそかに彼女の存在を羨み、感謝もしていた。彼女と景一郎が共に在って欲しい、と願っていた。
(だから、異論なんてあるはずがない)
「事情は分かりました。しかし何故、私に断りを入れに来られたのですか? それは弟のわたしではなく、父に物申すべきことでは?」
「本来ならそうすべきじゃろう。しかして、お主の父君はそれを許されるお方か?」
「いいえ。決して許されないでしょう」
「そう。ゆえにわらわは景一郎を連れ去りに来た。お主に断りを入れるのは、お主があの者の幸せを望んでいてくれると思ったからじゃ。――仲良き兄弟を引き裂き、景一郎の跡を継ぐお主に詫びの一言も入れねば、道理に合わぬ」
「なるほど」
恭二郎は納得して頷き、彼女の律儀さに感謝する。もし前触れなく景一郎が姿を消せば、恭二郎は心配に胸を痛めるだろう。何年経っても、景一郎の捜索を諦めきれなかったに違いない。周囲とて跡継ぎの失踪に騒ぐだろうが、それは時間が解決する程度の問題だった。
道理を通しに来た少女を見下ろし、恭二郎はふっと微笑して言った。
「――どうぞ、兄上をお連れ下さい。義姉上」
「む……義姉上とな? わらわとお主の兄はそんな関係ではないが……」
「そうなのですか? では、本当にただの御友人ですか?」
「むぅ、友人……とも異なろう。じゃが、義姉上とはまた面白き響きであるな」
「不躾でなければ、そう呼んでもよろしいでしょうか」
「お主もこだわるな。……良い、呼び方はお主に任せよう。わらわとあの者の関係が、伴侶に似ていることもまた真実ゆえ」
紅姫はおかしそうにくすっと笑みを零す。
それを見た恭二郎は少し安堵したような不思議な気分で、嬉しそうに笑った。
「しかし、わらわが言うのも難だが、良いのか?」
「はい。……兄上はもう充分にこれまで頑張ってこられたと思います。これ以上、兄上が家に縛られて辛苦に耐えるばかりではいけない。それでは兄上も、誰も幸せになれない。
義姉上、貴方が長年、兄上の支えであったことを知っています。だからどうか、これからも兄をお願いします。兄上は、幸せにならなければならないのです」
そうでしょう、と恭二郎は強く同意を求める。
紅姫は水面を思わせる澄んだ瞳を細め、どこか嬉しそうに小さく口角を上げた。
「お主の想いは理解した。じゃが、それはわらわにではなく、景一郎に言うてやれ。それだけお主に想われていたことを、あれも理解できよう」
「……そうですね。わたしも、いつか兄上と腹を割って話してみたい」
恭二郎は少し困ったような顔で、頷いた。
長いこと願って来たそれは、まだ叶いそうにない。兄弟の間に穿たれた溝は深く、いまだに全てを失くすには至っていない。景一郎の本心を知ることは、恭二郎がどれだけ耳をそばだててもまだ難しかった。そして景一郎が紅姫の手を取ったなら、その機会はまた遠くなるだろう。
紅姫はじっと恭二郎を見つめ、すっと手を差し出した。
「それでは参ろうか、弟殿」
「どこへ……?」
「無論、お主の兄の下へ」
「っ……わ!?」
きょとん、とした顔で恭二郎は紅姫の小さな手を見つめた。次の瞬間、ぶわっと突如風が舞い上がり、反射的に両手を顔の前に出して身構える。それほど強く感じなかった風が、恭二郎の身体を掬い上げ、宙に放り出した。
足場のない未知の感覚に顔を引き攣らせ、恭二郎は声なき悲鳴を上げる。混乱したまま周囲に視線を向ければ、何でもない顔で紅姫が傍に浮いていた。その背後には小鬼と透明な少女もおり、透明な少女の方は何やら風を操っているようだった。
ぐい、と手を強く引かれて恭二郎はそちらを見た。いつの間にか、紅姫が恭二郎の手を取り、不安定に浮かぶ恭二郎の身体を支えていた。
紅姫は苦笑を浮かべ、安心させるように言う。
「そう驚くでない。大丈夫じゃ、お主を害すことはせん」
「っ……そういう問題ではっ」
ない、と恭二郎が否定する前に風の向きが変わり、身体が勝手に方向転換する。その拍子に危うく舌を噛みかけ、慌てて口を閉ざして歯を食いしばった。こうなれば、紅姫と繋がった手だけが唯一の支えである。ぐっと力を込めて握り返せば、紅姫の苦笑が深まった気がした。
恭二郎は込み上げてくる原始的な恐怖に盛大に顔を歪ませ、ぎゅっと目を閉じた。足元を見下ろせば、通常目にできない見事な街並みが拝めたが、それを堪能できるだけの余裕はなかった。
しばらくして、恭二郎が足元のない不安定感に慣れ始めた頃、風の勢いが緩やかに衰え始めた。
恭二郎は恐る恐るまぶたを上げ、すぐ真下に見えた建築物に目を瞬かせた。ちょうど景一郎と父が赴いているはずの、見合いの会場である。今回の見合いを取り持つ、仲人役の持つ敷地に建つ立派な日本家屋だ。
それなりに実家とは距離が離れていたはずだが、この短い間に移動したようだった。束の間、中空にいる恐怖を忘れて真下の光景に呆ける。
その間に風はゆっくりと速度を落とし、恭二郎たちを建物の外壁の向こうへ降ろした。ふわっと優しい風に包まれながら地面に降り立ち、大地の感触を足の上に踏み締めて、恭二郎は大きな安堵にほっと息を吐いた。
せめて、この道の移動方法に移る前に一言断りを入れて欲しかった。
そう、紅姫に苦言を呈そうとした恭二郎は、隣に同じように降り立った紅姫がまっすぐに別の方向を見ていることに気付く。その視線の先を辿り、ああと恭二郎は納得の入った顔をした。
ばたばたと騒々しい音が外壁の奥から聞こえてくる。それは徐々に近づき、白亜の壁を辿った先に据え置かれた門がばんっと騒々しい音を立てて開かれた。外へ、紋付袴の正装姿の景一郎が飛び出してきた。何やら、とても焦った様子で恭二郎たちと真反対の方向へ走り出そうとする。
恭二郎は普段とは異なり、感情を表に晒す景一郎に咄嗟に声を掛けていた。
