緩やかに関係を改善させていた兄弟に変化が降りかかったのは、景一郎が二十二歳、恭二郎が二十歳の時分だった。当時恭二郎は陸軍に入隊し、景一郎は時期当主として父に付いて政務を学んでいた。多くの名家の子息がそうであるように、景一郎に見合いの話が持ち上がったのだ。
見合い相手は父の懇意にしている相手の娘だった。娘には何度か恭二郎も会ったことがあり、まだ十代で若く、容姿は美しいが、少し気の強い感じの女性であった。
おそらく景一郎と相手の女性の意など汲まれることなく、その見合いは成立することは目に見えていた。見合い、と称してはいてもほぼ婚約相手との顔見せと同義である。この時代、親の意向に沿って婚姻を結ぶことは貴賤関係なく当たり前のことだった。
景一郎の見合い話を耳にした時、恭二郎は祝いの言葉よりも先に懸念が先に立った。その見合いが景一郎にとって本意ではないことは明らかで、何より景一郎には想う相手がいることを知っていた。見合い相手の令嬢が、景一郎と性格的に合致していないように思えたこともある。
美津子、という名の令嬢は二年前に風邪をこじらせて亡くなった母を想起させる女性だった。名家の娘として自尊心が強く、貴賤の差別意識がはっきりとしている。令嬢として恥ずかしくない身の振る舞いを熟知していて、自らがふさわしくないと思うものを徹底的に排除する人だ。
そんな令嬢が明らかに異国の血を組んだ景一郎をよく思うはずがないことは、分かり切っていた。令嬢との結婚は景一郎を苦しめるばかりのように思え、父に異を唱えることはできずとも、恭二郎は見合い話に心の内では反対していた。
それを知っていたのか、父は異様なほど性急に見合い話を進めた。景一郎に申告した三日後に見合いの席を設け、すぐにでも縁談をまとめたいようだった。当人たちを無視して、縁談はもう止められないところまで進められていた。
当初恭二郎は、景一郎は見合い話を拒絶するのではないかと考えていた。たとえ無意味な抵抗であっても、異を唱えるくらいはするのではないか、と。詳しい話を聞いたことはないが、景一郎が友人と称する大切な女性がいることを知っていた。自分の人生を決める選択を、黙って受け入れるとは思えなかったのだ。
しかし、予想に反して景一郎は一言の文句も漏らさずに見合いを受け止めた。ただその間、景一郎は幼い頃を思い起こさせる冷たい無表情を崩すことはなかった。最近になって少しばかり穏やかなになった雰囲気は、凍てつかんばかりの硬質さを取り戻した。
見ていられなくなった恭二郎は、一度だけ景一郎に尋ねた。
「……兄上、本当にこのまま見合いを受ける御積もりですか」
「ああ。何か、おかしいかな」
「おかしいも何も、兄上にとっては不本意なことでしょう? 兄上が本当に拒絶されるなら、父上も考え直されるはずです。何故、何も言おうとされないのですか」
「……仕方ないことだと思っている」
「っ……兄、上」
景一郎はすっと目を伏せ、小さく嘆息を零す。その姿からは強い諦念と自嘲が漂い、自暴自棄の捨て身になっているようにも見えた。ほの暗い絶望さえ、漆黒の双眸には宿っていた。
何故抗う前から諦めているのか、恭二郎は理解できずに言葉を失った。昔から景一郎は理不尽な周囲の扱いに黙然と耐える人であったが、大事な時に言葉を惜しむ人ではなかった。譲れない一線は必ず守り通してきた人だからこそ、景一郎は見合いを断るだろうと推測したのである。
ふと恭二郎は時折耳にする景一郎の友人を思い出した。見合い話を父から受けた日の夜、景一郎はふらりと家を出て朝方に戻ってきた。直接確認したことはないが、そういう日は必ず、彼の友人に会ってきているようだった。
「……御友人は、何と言われているのですか」
「彼女は」
彼の友人なら景一郎を止めてくれるのでは、という淡い期待はすぐに打ち消された。
景一郎はつい、とうつむけた視線をあらぬ方角へ向け、目を眇めた。先ほどまで虚ろだった瞳は揺れ惑い、哀しみと辛苦がはっきりと浮かび上がる。わずかに口元に刻んだ笑みは、今まで以上に空虚に見えた。
恭二郎は予想外の反応に息を呑み、景一郎の言葉を待った。
「彼女は、ずっと遠くに行ってしまう。――もう、会えない」
「そ、んな……まさか」
この時初めて恭二郎は景一郎の荒れた態度の理由を知った。景一郎は見合い話が上がったからだけでなく、大事な人が離れて行くことを何より悲しんでいたのだ。何故、彼の友人が遠くへ行くことになったかは定かではないが、どうしようもないことなのだろう。
恭二郎は頬を引き攣らせ、凍りついた。景一郎にとって彼の友人は決して手放せない、大事な人だと察していた。今までの彼を支えてきたのは、他の誰でもなく彼の友人だろう。彼の友人なくして景一郎は成り立たず、失えばどうなるか分からない。
だから恭二郎はずっと願っていた。彼の友人が女性だと知った時から、景一郎とその友人が結ばれてくれれば、と。有り得ないと知りながら、半ば本気でそれを願っていたのである。
それは景一郎自身も否定した通り、都合のいい夢物語でしかなくても、景一郎が少しでも幸せになれる未来を願っていたゆえである。
「――仕方ない、ことなんだ」
そう、景一郎がつぶやいた言葉はまるで自分自身に言い聞かすようだった。
何の事情も知らず、力も持たない恭二郎はただ打ちひしがれる景一郎を見ているしかできない。慰めの言葉さえ掛けられず、無力に見守るしかできないのは、幼い頃からずっと変わらない。
それがずっと、たまらなく悔しかったのだ。
兄弟に充分な結論を出せるような余裕も与えず、三日という時は過ぎ去った。朝早くから屋敷はばたばたと騒がしく、昼前になって景一郎は父に伴われ、見合いへ出かけて行った。紋付袴の正装で出かけた景一郎の背は、初めて会った日と同じ、強い拒絶に溢れていた。
恭二郎はたまたま仕事が休みの日だったこともあり、そわそわと落ち着かず、広い庭の散歩に出た。景一郎はよく自宅の庭を散策して姿を消すが、恭二郎はあまり庭に出ることはない。だがその時は何か、予感のようなものがあった。
得も言われぬもやもや感を胸に抱えて、庭の手入れされた景色もろくに目に入れず、ぐるぐると恭二郎は歩き回った。晴天の空に浮かぶ太陽が頂点に来る頃、唐突にその風はやって来た。それまで凪いでいた空気が突如ぶわっと激しい風に取り巻かれた。
「っう、わ……!?」
咄嗟に両腕で顔を庇い、目を瞑って風の猛攻に耐えた。前触れなく巻き上がった風はすぐに収まりを見せ、恭二郎は恐る恐る腕を降ろして唖然とした。
その視線の先に一人の少女と二体の異形がいた。風と共に突然現れた彼らのうち、異形の二体には見覚えたがあった。時折、夜中に限ってのみ景一郎を送ってくる浅黒い肌の小鬼と半透明の少女は、景一郎の友人と縁が深い者のはずだ。
(それなら、この子……いや、この人は)
二体の異形を付き従えた少女は精巧な人形のように美しかった。珊瑚色の豪奢な打掛を纏い、手には赤い唐傘を差している。唐傘の影から覗く、足元まで滑り落ちた長い黒髪は艶やかだ。まだ十歳前後の子どものような容姿だが、恭二郎を見上げる夜の瞳は凪いだ水面のように静かで、長い人生をまっとうした老女のように深い眼差しをしていた。
少女は幼い姿に似合わない艶然とした笑みを口元に刻んだ。透き通るような玉の肌、鴉の濡れ羽色の髪、闇夜より深い双眸。すべてが美麗な衣装に引き立てられ、匂い立つような色香を湛えていた。それは思わず、ぞくりと背に怖れのような震えが走るほどであった。
恭二郎は何か言おうとして、ぱくぱくと口を開閉させる。少女の姿に圧倒され、声さえまともに出て来ない。明らかに普通ではない者たちを前にして、恐ろしいとは感じなかった。ただ、触れ難い、と神聖なものを見たかのように、感じていた。
「お主は景……景一郎の、弟御であろうか?」
「っ……あ、なた、は」
凛、と澄んだ声音に問われて、ようやく恭二郎の喉はかすれた声を漏らした。
少女はくるりと唐傘を回し、美しい微笑と共に名乗った。
「わらわは紅姫と呼ばれる者。まずは急な訪問の無礼をお許しいただきたい」
「あ……いえ、御丁寧にありがとうございます。わたしは十澄恭二郎、――貴方は……兄上の御友人でよろしいでしょうか」
「いかにも。――急かして悪いが、恭二郎殿、わらわを景一郎に会わせてもらいたいのじゃ」
「兄上は今……見合い中ですが」
恭二郎が少し言い難そうに答えると少女、紅姫はこともなげに頷く。
紅姫は真摯な瞳で恭二郎を見つめ、一歩一歩近づいてきた。小柄な体躯ゆえに動作は遅いが、洗練された動作は自然と他者の目を惹きつけるものがある。
すぐ目の前で足を止めた紅姫を、恭二郎は息を呑んで見守った。
「わらわはお主に謝らねばならん」
「……謝る?」
「すべてはわらわの我が侭ゆえ。――お主の兄君をいただきたい」
「…………は?」
見合い相手は父の懇意にしている相手の娘だった。娘には何度か恭二郎も会ったことがあり、まだ十代で若く、容姿は美しいが、少し気の強い感じの女性であった。
おそらく景一郎と相手の女性の意など汲まれることなく、その見合いは成立することは目に見えていた。見合い、と称してはいてもほぼ婚約相手との顔見せと同義である。この時代、親の意向に沿って婚姻を結ぶことは貴賤関係なく当たり前のことだった。
景一郎の見合い話を耳にした時、恭二郎は祝いの言葉よりも先に懸念が先に立った。その見合いが景一郎にとって本意ではないことは明らかで、何より景一郎には想う相手がいることを知っていた。見合い相手の令嬢が、景一郎と性格的に合致していないように思えたこともある。
美津子、という名の令嬢は二年前に風邪をこじらせて亡くなった母を想起させる女性だった。名家の娘として自尊心が強く、貴賤の差別意識がはっきりとしている。令嬢として恥ずかしくない身の振る舞いを熟知していて、自らがふさわしくないと思うものを徹底的に排除する人だ。
そんな令嬢が明らかに異国の血を組んだ景一郎をよく思うはずがないことは、分かり切っていた。令嬢との結婚は景一郎を苦しめるばかりのように思え、父に異を唱えることはできずとも、恭二郎は見合い話に心の内では反対していた。
それを知っていたのか、父は異様なほど性急に見合い話を進めた。景一郎に申告した三日後に見合いの席を設け、すぐにでも縁談をまとめたいようだった。当人たちを無視して、縁談はもう止められないところまで進められていた。
当初恭二郎は、景一郎は見合い話を拒絶するのではないかと考えていた。たとえ無意味な抵抗であっても、異を唱えるくらいはするのではないか、と。詳しい話を聞いたことはないが、景一郎が友人と称する大切な女性がいることを知っていた。自分の人生を決める選択を、黙って受け入れるとは思えなかったのだ。
しかし、予想に反して景一郎は一言の文句も漏らさずに見合いを受け止めた。ただその間、景一郎は幼い頃を思い起こさせる冷たい無表情を崩すことはなかった。最近になって少しばかり穏やかなになった雰囲気は、凍てつかんばかりの硬質さを取り戻した。
見ていられなくなった恭二郎は、一度だけ景一郎に尋ねた。
「……兄上、本当にこのまま見合いを受ける御積もりですか」
「ああ。何か、おかしいかな」
「おかしいも何も、兄上にとっては不本意なことでしょう? 兄上が本当に拒絶されるなら、父上も考え直されるはずです。何故、何も言おうとされないのですか」
「……仕方ないことだと思っている」
「っ……兄、上」
景一郎はすっと目を伏せ、小さく嘆息を零す。その姿からは強い諦念と自嘲が漂い、自暴自棄の捨て身になっているようにも見えた。ほの暗い絶望さえ、漆黒の双眸には宿っていた。
何故抗う前から諦めているのか、恭二郎は理解できずに言葉を失った。昔から景一郎は理不尽な周囲の扱いに黙然と耐える人であったが、大事な時に言葉を惜しむ人ではなかった。譲れない一線は必ず守り通してきた人だからこそ、景一郎は見合いを断るだろうと推測したのである。
ふと恭二郎は時折耳にする景一郎の友人を思い出した。見合い話を父から受けた日の夜、景一郎はふらりと家を出て朝方に戻ってきた。直接確認したことはないが、そういう日は必ず、彼の友人に会ってきているようだった。
「……御友人は、何と言われているのですか」
「彼女は」
彼の友人なら景一郎を止めてくれるのでは、という淡い期待はすぐに打ち消された。
景一郎はつい、とうつむけた視線をあらぬ方角へ向け、目を眇めた。先ほどまで虚ろだった瞳は揺れ惑い、哀しみと辛苦がはっきりと浮かび上がる。わずかに口元に刻んだ笑みは、今まで以上に空虚に見えた。
恭二郎は予想外の反応に息を呑み、景一郎の言葉を待った。
「彼女は、ずっと遠くに行ってしまう。――もう、会えない」
「そ、んな……まさか」
この時初めて恭二郎は景一郎の荒れた態度の理由を知った。景一郎は見合い話が上がったからだけでなく、大事な人が離れて行くことを何より悲しんでいたのだ。何故、彼の友人が遠くへ行くことになったかは定かではないが、どうしようもないことなのだろう。
恭二郎は頬を引き攣らせ、凍りついた。景一郎にとって彼の友人は決して手放せない、大事な人だと察していた。今までの彼を支えてきたのは、他の誰でもなく彼の友人だろう。彼の友人なくして景一郎は成り立たず、失えばどうなるか分からない。
だから恭二郎はずっと願っていた。彼の友人が女性だと知った時から、景一郎とその友人が結ばれてくれれば、と。有り得ないと知りながら、半ば本気でそれを願っていたのである。
それは景一郎自身も否定した通り、都合のいい夢物語でしかなくても、景一郎が少しでも幸せになれる未来を願っていたゆえである。
「――仕方ない、ことなんだ」
そう、景一郎がつぶやいた言葉はまるで自分自身に言い聞かすようだった。
何の事情も知らず、力も持たない恭二郎はただ打ちひしがれる景一郎を見ているしかできない。慰めの言葉さえ掛けられず、無力に見守るしかできないのは、幼い頃からずっと変わらない。
それがずっと、たまらなく悔しかったのだ。
兄弟に充分な結論を出せるような余裕も与えず、三日という時は過ぎ去った。朝早くから屋敷はばたばたと騒がしく、昼前になって景一郎は父に伴われ、見合いへ出かけて行った。紋付袴の正装で出かけた景一郎の背は、初めて会った日と同じ、強い拒絶に溢れていた。
恭二郎はたまたま仕事が休みの日だったこともあり、そわそわと落ち着かず、広い庭の散歩に出た。景一郎はよく自宅の庭を散策して姿を消すが、恭二郎はあまり庭に出ることはない。だがその時は何か、予感のようなものがあった。
得も言われぬもやもや感を胸に抱えて、庭の手入れされた景色もろくに目に入れず、ぐるぐると恭二郎は歩き回った。晴天の空に浮かぶ太陽が頂点に来る頃、唐突にその風はやって来た。それまで凪いでいた空気が突如ぶわっと激しい風に取り巻かれた。
「っう、わ……!?」
咄嗟に両腕で顔を庇い、目を瞑って風の猛攻に耐えた。前触れなく巻き上がった風はすぐに収まりを見せ、恭二郎は恐る恐る腕を降ろして唖然とした。
その視線の先に一人の少女と二体の異形がいた。風と共に突然現れた彼らのうち、異形の二体には見覚えたがあった。時折、夜中に限ってのみ景一郎を送ってくる浅黒い肌の小鬼と半透明の少女は、景一郎の友人と縁が深い者のはずだ。
(それなら、この子……いや、この人は)
二体の異形を付き従えた少女は精巧な人形のように美しかった。珊瑚色の豪奢な打掛を纏い、手には赤い唐傘を差している。唐傘の影から覗く、足元まで滑り落ちた長い黒髪は艶やかだ。まだ十歳前後の子どものような容姿だが、恭二郎を見上げる夜の瞳は凪いだ水面のように静かで、長い人生をまっとうした老女のように深い眼差しをしていた。
少女は幼い姿に似合わない艶然とした笑みを口元に刻んだ。透き通るような玉の肌、鴉の濡れ羽色の髪、闇夜より深い双眸。すべてが美麗な衣装に引き立てられ、匂い立つような色香を湛えていた。それは思わず、ぞくりと背に怖れのような震えが走るほどであった。
恭二郎は何か言おうとして、ぱくぱくと口を開閉させる。少女の姿に圧倒され、声さえまともに出て来ない。明らかに普通ではない者たちを前にして、恐ろしいとは感じなかった。ただ、触れ難い、と神聖なものを見たかのように、感じていた。
「お主は景……景一郎の、弟御であろうか?」
「っ……あ、なた、は」
凛、と澄んだ声音に問われて、ようやく恭二郎の喉はかすれた声を漏らした。
少女はくるりと唐傘を回し、美しい微笑と共に名乗った。
「わらわは紅姫と呼ばれる者。まずは急な訪問の無礼をお許しいただきたい」
「あ……いえ、御丁寧にありがとうございます。わたしは十澄恭二郎、――貴方は……兄上の御友人でよろしいでしょうか」
「いかにも。――急かして悪いが、恭二郎殿、わらわを景一郎に会わせてもらいたいのじゃ」
「兄上は今……見合い中ですが」
恭二郎が少し言い難そうに答えると少女、紅姫はこともなげに頷く。
紅姫は真摯な瞳で恭二郎を見つめ、一歩一歩近づいてきた。小柄な体躯ゆえに動作は遅いが、洗練された動作は自然と他者の目を惹きつけるものがある。
すぐ目の前で足を止めた紅姫を、恭二郎は息を呑んで見守った。
「わらわはお主に謝らねばならん」
「……謝る?」
「すべてはわらわの我が侭ゆえ。――お主の兄君をいただきたい」
「…………は?」
