笑みを含んだ声が部屋に入ってすぐ掛けられる。
 鈴蘭の間の中央に、部屋の主が肘掛けにもたれてくつろいでいる。広大な睡蓮邸の主にして、十澄が会いに来た人物は外見だけは年端のいかない幼女だ。緋色の打掛に牡丹の縫いこまれた振袖を着て、漆黒の背丈以上に伸びる髪の毛を結わずに背に流している。
 客人を迎えるには非礼な態度と格好であるが、不思議と小さな外見に反して大人びた彼女にはそれがよく似合っている。

「ごめん、十(と)純(ずみ)。でも手土産を持って来たんだ」
「あら、綺麗な雛罌粟じゃないの。良かったですわね、紅(くれない)姫(ひめ)様」

 十澄の手にある花に気付いた風切姫が歓声を上げ、主を振り返る。
 二人の視線の先で睡蓮邸の主、紅姫は面白そうにくすっと笑った。

「綺麗な花じゃ。景、もっとこちらに寄れ。話すなら近くにいた方が楽であろう」
「そうだね。座布団は……あった」

 部屋の中を見回して予備の座布団を見つけると、十澄はそれを持って紅姫の傍へ寄って行く。隣に座り込むと、見慣れた幼女の美貌をのぞきこんだ。
 紅姫は一輪の雛罌粟を近くで目にすると、わずかに嬉しそうに目元を和ませる。

「ちょうど良く色付いておるわ。我が屋敷にこれほど相応しく鮮やかな色はあるまい。しかし、景よ。一輪だけでは花瓶にも差せぬ。この屋敷の花瓶は大きすぎるゆえ」
「うん。でもたくさん手折るのは気が引けてね。あんまりに綺麗に咲いてたから」

 十澄は雛罌粟を持った手を伸ばして紅姫の漆黒の髪に添える。結っていない髪に花を差すことはできないが、差せば雛罌粟が彼女の美しさを引き立てることは分かる。
 その証拠に、二人の会話を聞いていた風切姫が声を上げる。

「まぁ、まぁ! 姫様、とってもお綺麗ですわ。ぜひ、御髪に差しましょうよ」
「だろう? ぼくもそう思って持って来たんだ」

 実家の近くに毎年雛罌粟が咲くのは知っていた。これまでは機会を逃してきたが、いつか綺麗な雛罌粟で紅姫の髪を飾りたいと思っていたのである。
 十澄が視線だけで問うと、紅姫は仕方ないという笑みで頷く。

「なら、今すぐ結おう。風切姫、彼女の櫛とリボンはどこにあるかな」
「少し待ってね。取り出すから」

 声を弾ませて風切姫はふわふわと宙を移動し、鈴蘭の間の端に設置された和箪笥に近寄る。風切姫がふいっと指を動かすと、風が吹いて箪笥の引き出しが一つ開けられる。そこから純白の櫛と赤いリボンが風に攫われて出てくる。
 風切姫の操る穏やかな風に運ばれて十澄の手元に櫛とリボンが届いた。部屋を荒らさない程度の微風が二人の髪を揺らす。

「さて、どうしよう。十純、希望はあるかい?」
「この後は客が来る。見られる髪型なら、何でもかまわん」
「それなら普通に下げ髪でいいね」

 十澄はいそいそと紅姫の背後に回り込むと、櫛を彼女の髪に通し始める。紅姫の髪は梳かすまでもなくさらさらで、気を抜けば結おうとする十澄の指をすり抜けてしまう。
 本来なら成人に達した男子が女子の髪を結うなど、有り得ない。しかし二人に関して言えば、出会った頃から繰り返してきた当たり前のことである。
 初めは会う度に髪を結わずに背に流している紅姫を見て、もったいないと思ったのだ。せっかく綺麗な髪だから少しは着飾ればいいのに、と。それから許可を取って十澄が彼女の髪を結うようになった。これが力加減や結い方にこつが必要で、慣れるまで苦労したものだ。
 さすがに出会って十六年も経つと、彼女の髪を結う十澄の手つきもなめらかで手早くなる。短い間に髪をまとめると手元の赤いリボンで飾る。

「よし、できたよ。風切り姫、どう思う?」
「いいんじゃない? あぁ、私も姫様の御髪に触れられたら毎日でも結って差し上げるのに!」

 本気で悔しそうに風切姫は叫ぶ。風の精霊である風切姫は半透明で実体を持たない。物を取る時などは風を操って移動させるが、物に触れることはできないのだ。
 そもそも十澄が現れるまで紅姫が髪を結っていなかったのも、結える者がいなかったからだ。

「さぁ、姫様。ご覧くださいな」

 先ほど櫛とリボンを取り出した和箪笥から風で手鏡を取り出して、風切姫は紅姫の手に手鏡を渡す。
 綺麗に髪を結うと紅姫の印象はまた変わる。もともと幼い外見をしているが、それに輪を掛けて可愛らしく映るのである。その反対に雰囲気は乱れを知らない、年を経た落ち着きを宿すのだから不思議だ。

「ほぅ、やはり上手いな、景」
「ずっと君の髪を結ってきたからね」
「これからも頼む」

 十澄が笑って了承すると、紅姫は手鏡を床に置いて突然すっと立ち上がる。首を西の方角、屋敷の門のある方向に向けて目を細める。
 彼女の仕草で十澄と風切姫もすぐに事態を把握した。

「客が参ったようじゃ。また一つ、睡蓮の墓標が立とう」
「鬼丸と客を案内して来ますわ。姫様、お庭で御準備なされてくださいまし」

 ぱっと顔を引き締めた風切姫は慌ただしく告げると、適度な風圧で鈴蘭の間のふすまを開けて飛んで行く。風の精霊である彼女の移動は素早く、他の二人が反応する頃には鈴蘭の間にその姿はない。
 開け放たれたままの入り口を一瞥し、十澄は睡蓮邸の主を仰ぐ。

「ぼくが一緒にいても?」
「かまわん。この度の客は人間を主食にはしておらんよ」
「じゃあ、隠れてなくて済むね」

 ほっと安堵の息を吐き、十澄も立ち上がる。
 睡蓮邸を訪れる者のほとんどは異形の者である。生粋の人間である十澄の方が珍しく、訪問者の中には人間を主食にする者も少なくない。もしも出会うことがあれば、睡蓮邸の主の守護下にある十澄であっても無事では済まないだろう。
 以前に一度だけ十澄は人間を好物とする大蛇に睡蓮邸で遭遇して、追いかけ回されたことがある。あの時は本気で死ぬかと思った。それから十澄は不用意に睡蓮邸を一人で出歩くことを止めた。
 十澄は慣れた動作で紅姫の傍に寄ると、すっと腕を差し出す。

「どうぞ」
「ふむ。お主も随分とエスコートが上手になったものよ」
「こんなことする相手は、十純くらいしかいないけどね」

 感心した顔で紅姫は十澄の腕に小さな手を置き、連れだって歩き出す。外見はあどけない子どもの紅姫と日本人の平均を上回る高身長の十澄では身長差が激しい。しかし、並ぶ二人の姿は妙にしっくりと馴染んで絵になる。
 風切姫の開け放った戸口から二人は鈴蘭の間を出る。紅姫の歩幅に合わせてゆっくりと廊下を進むと、きしきしと床がかすかな軋みを上げる。

「今日の客は誰?」
「天狗じゃ。もう千八百年近く生きてきたようでの、疲れておる」
「千八百年……。確かにそれは、疲れるかもしれないね」

 人間である十澄には千年を生きる者の心境は理解できない。無限に近い寿命を持つ者はとにかく気長で、人間には悠長な態度に見えることもしばしばだ。それでも千八百年の歳月は彼らにとっても長い時間の流れのようである。

――生きることに疲れてしまうほどに。