紅睡蓮の墓守邸

 使用人の迎えを待って帰宅した後、恭二郎は景一郎の帰宅を待った。恭二郎は学舎で用事を済ませるとすぐに帰宅するが、景一郎は暮れ方に帰宅するのが常である。酷い時は昨日のように、朝帰りすることさえ、少なからずあった。
 恭二郎が帰宅すると出会う使用人たちは必ず、お帰りなさいと迎えの言葉を掛ける。だが景一郎が帰宅しても、使用人たちは必要以上に口を利かず、ただ頭を下げて脇を通り過ぎるだけだ。意図的に誰もが無視しているから、景一郎の帰宅を察知することは意外に難しかった。
 例に漏れず、この日も恭二郎は事前に景一郎の帰宅を察知することはできなかった。夕餉の時にふらりと姿を現したのを見て、帰宅を知ったほどである。この時ばかりは、広すぎる邸宅の構造が憎らしかった。
 就寝の時間帯が迫るとようやく恭二郎の周囲から使用人が消える。それまでは常に誰かが、恭二郎に目を配っていて家では景一郎に気安く声を掛けることはできないのだ。恭二郎は焦れながらその時を待ち、景一郎の部屋へ他者の目を憚りながら向かった。気配を潜ませて廊下を付き抜けて行くと緊張でドキドキと心臓が音を高めた。
 恭二郎の部屋とは真反対の位置にある景一郎の部屋に近づくほど、屋敷の喧騒とは遠ざかって過疎性を増して行く。いよいよ近くまで来ると自分の息さえ憚る静寂が廊下の辺りを覆う。人に囲まれ慣れている恭二郎には、それが寂しく見えて仕方なく、苦々しい想いをぶり返させる。
 景一郎の部屋のふすまを目にして、恭二郎は足を止めた。いざ、実行に移すとなると尋常ではない緊張で息を呑む。この九年間、ずっと躊躇ってできなかったことをしようと言うのだから、仕方ないことだ。
 だが恭二郎が一歩踏み出す前に、すっと目の前のふすまが横に開いて景一郎が出て来た。景一郎は廊下に出て恭二郎を認めると驚いた顔になる。すっと驚きはすぐに消え、秀麗な眉が怪訝そうに顰められた。意外、とその顔が言外に告げている。
 予想外の遭遇に恭二郎は慌てて口を開いた。

「あの、兄上」
「何か用でも?」

 淡々と感情の籠らない声で景一郎に問われ、早くも恭二郎はくじけてしまいそうになる。恭二郎はぐっと躊躇を呑み込み、まっすぐ景一郎を見た。そこだけは同じ、漆黒の瞳とぶつかる。
 意を固めると言葉はすんなりと口を出た。

「――ありがとうございました」
「……何のことだ?」
「心当たりがないなら、それでもかまいません。兄上にぼくが勝手に助けられたんです」
「そう、か」

 景一郎にも心当たりはあるらしく、ひとつ頷いて感謝の言葉を受け取る。
 恭二郎は変化をほとんど見せない白皙の顔をじっと眺め、不意に昨夜の光景を脳裏に思い浮かべた。あれほど柔らかい面差しを見せた顔は、別人のように無機質で触れ難い。だがどちらも違わず景一郎で、硬質な態度を取らせているのは恭二郎だ。
 そのことに気付いた恭二郎は、怖れを忘れて切り出していた。

「その、もし邪魔にならないなら……ぼくに勉学を、教えてもらえませんか」
「それはかまわないけど。……いいのか?」
「はい。ぜひ、お願いします」

 景一郎が何を以ていいのか、と確認したのかは理解していた。この家には嫡男の景一郎に関わるべからず、という暗黙の不文律が出来上がっている。もし表だって景一郎を庇えば、家の女主人である母が許さない。使用人なら追い出される可能性もあるが、たとえ母が良い顔をしなくても、恭二郎には大きな問題ではなかった。
 恭二郎が決然と頷くのを目にして、景一郎は小さく無言で頷いた。
 それにぱっと顔を輝かせて、恭二郎は頭を下げる。

「ありがとうございます! もう今日は遅いので、明日にでもお願いします」
「ああ。何かあれば、聞きにきてくれ」
「はい」

 ここに来るまでとは真反対の喜びを隠せない表情で、恭二郎は勢いよく頷く。
 景一郎は落ち着かなげに視線を逸らした。そのまま話は終わりとばかりに、また自分の部屋に戻ろうとする。どうやら部屋の前に立つ訪問者が気になって出て来ただけのようだ。
 恭二郎は慌てて、ふすまを閉じようとする景一郎に声を掛ける。

「お、おやすみなさい、兄上」
「……おやすみ」

 ふすまを引く手を一瞬止め、景一郎からも言葉少なに返事があった。
 それだけのことに、恭二郎はいたく感激する想いだった。先ほど以上に胸は高鳴り、体温が上昇して頬は上気していた。恭二郎はにこにことした顔で踵を返し、足取りも軽やかに自分の部屋に戻る。幸いにも、使用人と出会うことはなく、嬉しそうな様子を見咎められることもなかった。

――これが初めて兄弟がお互いに歩み寄ることにした瞬間である。

 これ以降、主に恭二郎から積極的に景一郎に声を掛ける形で、徐々に二人は関係を変えていくこ
とになる。本当にゆっくりと景一郎は恭二郎に心を開き、時には笑いかけてくれるようなるまでは十年近い年月が必要となった。