紅睡蓮の墓守邸

 その後、自宅に帰ると屋敷内は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。すでに何人か、捜索に出た家人もいるらしく、警邏に通報する寸前であったらしい。泥だらけ、傷だらけの格好を見咎められ確認されたが、恭二郎は曖昧に誤魔化して、心配する母と家人たちに謝り続けた。
 おかげで、当分の間は学舎への行き来に家人が付き添うことが決まってしまった。
 さすがに夜も更けると家人や母たちは寝つき、恭二郎もきっちり怒られ謝罪し尽くした疲労でぐったりと自室の文机に突っ伏していた。寝具は用意されており、すぐにでも寝たかったが、気にかかることがあった。
 今回の件で夕餉は普段より遅く振る舞われたが、その時に景一郎は姿を見せなかったのだ。食欲がなくて自室に籠っているのかとこっそりと部屋を覗きに行ったが、まるで景一郎の気配はしなかった。景一郎は、月が上ってくる頃になっても帰宅していなかった。
 大事な嫡男の不在に気付かず、あるいは無視して振る舞うこの家の何と可笑しなことか。景一郎の不在に気付いた恭二郎は、自分が大事にされているがゆえに忸怩たる想いを抱く。
 だから、今夜は景一郎が戻るまで起きているつもりだった。

(まだお礼を言っていないから)

 景一郎の本心がどこにあるのか定かではないが、彼が恭二郎に心を砕いてくれたことは事実である。不可解に思われても、一言くらいきちんと告げるべきだと思っていた。
 しかし、やはり今回子どもの身体に掛かった負荷は大きかったらしく、決意も虚しく恭二郎はうたた寝をしてしまった。薄ぼんやりとした意識で眠気に抗うが、どうしようもなく心地良い闇が迫って来て、いつの間にか陥落していた。
 ひんやりと急に温度の下がった空気に身をぶるりと震わせ、その反動で目を覚ました。文机から身を起こし、ぱちぱちと瞬いて暗闇をぼんやりと眺める。次第に部屋の中の陰影がくっきりと認識され、その頃には恭二郎も自分が寝過ごしたことを自覚した。
 さっと顔色を変えて、慌てて立ち上がる。障子窓から零れる夜光から、もう夜半というより夜明けに近いように思われた。この時間帯に景一郎が帰宅していないなら、それこそ大事である。恭二郎はあたふたと部屋を出て、景一郎の部屋のある方へ向かった。
 周囲を憚って足取りはそっと慎重なものになったが、強い焦りもあって歩はいつになく速い。景一郎の部屋が遠いことも、要因のひとつではあった。目を覚まして余計に意識される寒さに長着の袖を引き寄せ、中庭に向かい合う縁側を付き抜けようとした時だった。不意に、予感のようなものを覚えて、恭二郎は足を止めた。縁側の手前にある戸の影に隠れ、月明かりに照らされる中庭にそっと視線を這わせた。

「っ……!!」

 ぱっと視界に入った光景に、恭二郎は息を止めて身体を硬直させた。次の瞬間、兄上と動きそうになった口を両手で押さえ、戸の影に意識して身を潜ませる。
 中庭にいっそ幻想的とも言える場景ができていた。煌々と世界を照らす満月の下、中庭の砂利の上に設置された敷石に景一郎は立っていた。その格好は夕方に見た時と同じ羽織の上に、肩からさらに厚い布を羽織っている。その横には、丸みを帯びた小さい異様な生き物がいた。景一郎と対照的な浅黒い肌、何より頭頂部に生えた一本の角が非現実的である。にこにこと愛想の良い子鬼のような生物の頭上には、半透明の美しい少女が浮いている。きゃらきゃらと楽しげに笑う声が、恭二郎の下まで届いていた。
 見たことも聞いたこともない、不思議な生物を二体連れ添わせた兄の姿を、恭二郎はじっと気配を殺して見守った。初めは幻じみた光景に頭が混乱していたが、時間が経つに連れて彼らの様子を探れるほどに冷静になっていた。
 彼らは声を潜ませて、楽しげに会話していた。小鬼はしきりに丁寧なお辞儀を景一郎に向け、半透明の少女は高い声で笑いながら小鬼と景一郎の周囲をひっきりなしに舞っている。その度に微細な風が吹くようだった。
 何より恭二郎を驚かせたのは、景一郎の柔和な横顔だった。家にいる時は見たことのない、自然で温和な笑みを絶えず浮かべていた。身に纏う空気も、優しい月光に溶け込みそうなほど落ち着いていて穏やかである。さながら別人のようですらあった。
 景一郎が彼らに心を開いている、と一目で確信できる有様だった。

(兄上は……やはり)

 だが、その差異の激しさこそが実家での仕打ちの酷さを物語っている。その大部分において、恭二郎の存在が関わっているはずだ。そう考えれば、常々感じていた胸の痛みがさらに鋭くなった気がした。

(だけど、良かった)

 同時に恭二郎はほっと安堵していた。日常生活の中で味方の一人さえ、景一郎にはいない。どれだけ景一郎が他者に好かれようと努力しても、多くの人は評価してくれない。そんな辛い日々にも、景一郎を支えてくれる存在は確かにいたようだ。――それが異形であれ、妖怪であれ、何でも構わないから嬉しかった。
 やがて、彼らは話し終えた様子で、景一郎がひらひらと小さく手を振る。そのすぐ後にお辞儀していた小鬼の身体がふわっと宙に浮き、遅れてぶわっと一際大きな風が吹き上がった。咄嗟に目を瞑り、再び目を開けた時には二体の異形の姿は消えていた。
 恭二郎が唖然と見つめる先で、景一郎は少し名残惜しげに夜空を見上げていたが、身を翻して中庭の敷石を辿り、縁側の方へ近づいてくる。どうやら自室に戻るようだと気付き、恭二郎は慌てて戸の影に身を縮ませる。幸いながら、景一郎の部屋は恭二郎のいる場所とは反対の方角にある。鉢合わせをする心配はなかった。
 縁側のガラス戸をすっと開けて、景一郎は静かに家の中に入り込む。それから恭二郎の存在に気付く様子もなく、景一郎は足音を殺して縁側の奥へ歩いて行く。その背からは、先ほどの柔らかい雰囲気が嘘のように消え、硬質で見慣れた雰囲気があった。
 恭二郎はその背が視界から失せても、しばらくじっと戸の影に固まって動けなかった。この日はどう自室に辿り着き、寝具に入ったのか、記憶が曖昧である。
 次の日、朝食の席に景一郎は姿を現さなかった。使用人に聞けば、朝早くに師と約束があると言って学舎に出向いたようだった。朝一に声を掛けようと緊張していた恭二郎は、良くも悪くも拍子抜けしてしまい、微妙な気分で使用人に付き添われて学舎に向かった。
 門の前で使用人と別れ、学舎に入ったところで恭二郎は横から声をかけられた。聞き覚えのあるそれに、身を固くして振り返る。そこに、昨日教本を奪って庭に隠したと言って来た男子がきゅっと唇を引き結んで立っていた。
 恭二郎は只ならぬ厳しい面立ちをした男子を緊張した顔で見つめる。また意地悪な言葉を掛けられるかと身構えたが、男子は何も言わず睨み付けてくるばかりだった。

「……あの、」
「――これっ!」

 意を決して教本の返却を求めようとした恭二郎は、男子が勢いよく背後から取り出したものを見て呆気に取られた。それは昨日彼に奪われた、師から借り受けた教本だった。端の方がよれているが、目立つ損傷はない。恭二郎は昨日必死になって探した教本と男子に交互に視線を向け、困惑して立ち尽くした。
 何故、奪い取って隠した張本人がその手で返しに来るのか。恭二郎は事の流れがさっぱりと分からなかった。教本を受け取ることも忘れて、男子を眺める。景一郎に声を掛ける以上に、目の前の男子に掛けるべき言葉が分からなかった。
 男子は気まずそうにちらちらと恭二郎を見て、半ば怒鳴るような大きな声で言った。

「きっ、昨日は悪かった! お前のもの、盗んで……庭になんて、隠してなかったんだ。ちょっと意地悪するだけのつもりだった。っもう、しないから。本当に、ごめん。許してくれ」
「え、あ……うん。ぼくも、君の気に障ることしたのかもしれない」
「それはっ、お前が悪いんじゃない。……見苦しい真似をして、本当にごめん」
「う、うん」

 勢いを失って悄然と項垂れる男子を恭二郎は戸惑い、眺める。周囲に流れ出した重苦しい空気に息を詰まらせ、恭二郎は落ち着きなく視線を逸らした。どよん、と淀んだ空気は改善されず、事態は膠着したまま、しばしの時間が流れる。
 恭二郎は少し辟易とした想いで、目の前の男子を改めて見た。それから事態を打破するため、おそるおそる当初からの疑問を投げかけた。すなわち、いきなりどうしたのか、と。どう見ても男子の変貌は急激で、これだけ必死に謝る誠実さを男子が初めから持っていたなら、そもそも意地悪をすることもなかったはずだ。
 男子は罰が悪そうな顔で、神妙に語った。

「昨日、夕暮れ時に人が来たんだ。その人に言われた。――君は自分の行いを恥じずにいられるのか、って。よく分からなかったけど……あの人に聞かれたら、急に自分が恥ずかしくなった。弟とか、両親にこんなこと知られたら俺、自分が恥ずかしくてたまらなくなるって思ったんだ」
「……そうなんだ」

 だから謝りに来た、と真面目な顔で告げられ、恭二郎は相槌を打つことしかできなかった。男子を訪ねた人が誰かなど聞かなくても分かる。教本の件を知っているのは、当事者である恭二郎と男子、それ以外では景一郎しかいない。図ったように、他者がそんなことを子どもに聞くとも思えない。また一つ、お礼を言うべきことが増えた。
 その後、恭二郎は男子から教本をきちんと受け取って、何度も謝罪をされながら別れた。昨日とは態度を一変させた男子に戸惑いはあったが、これからは良い友人付き合いができそうな気がした。実際、大人になって互いの道を歩み始めても、男子とは友人として深い縁を持つことになった。
 その日は師の説法もろくに頭に入らないほど、この二日の出来事がぐるぐると思考を占拠した。六年前と同様にさりげなく助けてくれた景一郎へ、どう言葉を掛けるべきか。ありがとう、と一言残すだけでは足りないと思ったからこそ、悩んでいた。

(ぼくはもっと、兄上と話してみたい)

 いつも景一郎は何を考えているのか。恭二郎のことをどう思っているのか。少しずつでいいから景一郎のことを知りたかった。それは今までも心の隅で感じていたことだったが、この時ほどそれを切望したことは後にも先にもなかった。