この後、兄弟が再び出会うのは二年先の話となる。
 景一郎が七歳、恭二郎が五歳の年に初めて二人は両親によってお互いを紹介され、兄は離れから母屋に住まいを変えた。それは景一郎を両親が認めたからではなく、今後のことを考えると体裁が悪いかったからである。異人の血が濃い、と言っても景一郎が長子で後継であることに変わりなく、あからさまにないがしろにするのは良くなかったようである。
 住まいを母屋に移されても、景一郎への扱いは改善されなかった。景一郎の部屋は他の家族の部屋から一番遠い場所に指定され、同じ家に住んでいても滅多に顔を合わすことはない。唯一、朝食の時間だけは家族全員が同じ席に着いたが、景一郎は両親からまるで無視されていた。
 景一郎は両親から向けられる侮蔑の視線を黙って受け止めていた。謂れのない中傷も不遇な扱いも全て無視して、ただ冷めた眼差しを周囲に送っていた。それは恭二郎に対しても変わらず、兄弟は二度目の顔合わせ以降、挨拶さえろくに交わさない日々を続けた。
 幼い頃、恭二郎は景一郎がとても苦手だった。自分と異なる容姿が放つ独特の雰囲気は話しかけ辛く、何より恭二郎を見る目の冷ややかさが恐ろしかった。
 だが歳を取るに連れて、景一郎の置かれた状況を理解できるようになると別の想いが湧いてくるようになった。それは兄と真反対の扱いを受けることへの、罪悪感。ただ父方の血を濃く引いただけで、両親の愛情を一身に受けることへの申し訳なさと兄をないがしろにする周囲への不満だ。
 景一郎の異人の血は、母方の曾祖母から受け継がれた血である。母は日本人の血を濃く受け継いだが、景一郎は覚醒遺伝で曾祖母によく似て生まれた。もともと異人は忌避される傾向にあるが、十澄家においては母が誰よりもその血を疎んでいた。名家に生まれながら異人の血を引き、他者からそしりを受けて来た母は、景一郎を見ると自分の中の異人の血を自覚して酷い嫌悪に陥るようだった。
 私は異人ではない、日本人よ、というのが母のひそかな口癖だった。
 父は異人の血に関して強い批判はしなかったが、その代り弁護もしなかった。父は子どもに関して傍観の立ち位置を崩さなかった。その結果、母はとことん景一郎を異端視し、それは使用人に影響を与えて家全体の風潮となったのだ。
 その成り行きを理解すれば、恭二郎も自分が運よく父に似ただけで母や使用人に愛されていることが分かり、運が悪ければ景一郎と同じ立場になっていたことも理解できた。
 本来は長子である景一郎は屋敷の中で誰よりも愛される立場だったはずだ。次期当主として使用人に敬われ、両親は景一郎を第一に考えただろう。だが現実はそうならず、恭二郎がその立場にいた。屋敷の中では、景一郎を廃して恭二郎を後継にと望む声も高かった。
 自分を押す声を耳にする度に、恭二郎は景一郎への罪悪感を募らせた。景一郎は決して無能ではなかった。不平も不満も零さずに淡々と自らの役目をこなし、それだけの努力もしていた。家の中で誰も認めようとはしなかったが、景一郎はとても優秀だったのだ。
 それを、景一郎の背を見続けた恭二郎だけが知っていた。あるいは父も知っていたかもしれないが、父がそれを態度に表すことはなかった。
 兄弟は家の中でお互いに関して無関心な態度を取り続けた。だが恭一郎が景一郎をひそかに敬慕し、複雑な想いを抱えていたように、景一郎もまた恭二郎に並々ならぬ感情を抱いていただろう。むしろ景一郎の境遇を考えれば、恭二郎へ直接的な恨みを伝えて来てもおかしくはなかった。
 二人の関係が変化を見せたのは、景一郎が母屋で暮らし始めて四年が過ぎた頃だった。景一郎は十一歳、恭二郎は九歳になっていた。当時、二人は同じ学舎に通っていた。それぞれ七歳の時に入校し、学年が違うこともあって別の師に付いて学んでいた。学び舎を同じくすることで二人の接点は増えたが、二人が言葉を交わす機会はやはりなかった。
 学舎には基本的に見分の高い良家の子息子女ばかり集められていた。子どもの世界でも、家格の違いは大きく影響してくる。家格の高さを理由に他者を虐げる子どもも少なからず存在した。十澄家は決して低い家格ではなかったが、侯爵や公家に盾を付けるほど名家でもない。対外的に見ればそこそこの家格の、特筆すべき点のない普通の名家だった。
 恭二郎は学舎に通う子どもの中でも、大人しい子どもだった。周囲の大人の意に従順で、特に家格を理由に権力を奮うことも無く、学力も中の上と言ったところで、本人には目立つ要素は何もない。ただし、兄は学舎でも飛び抜けて目立っていた。もちろん、異人の血の混じった異端な容姿のせいもあるが、景一郎は学舎の中で誰よりも優秀だった。師たちの覚えも目出度く、堂々と学力において学び舎の首位を取っていたからだ。
 本来なら景一郎も、他者に目の敵にされて虐げられてもおかしくはなかった。だが景一郎の紛うことなき実力と他者を寄せ付けない独特な雰囲気が、それを許さなかった。何より、景一郎は他者と関わることを厭う反面、気遣いを忘れないお人よしでもあった。学舎には、分からないところを教えてもらった、師に怒られている時に助けてもらった、拾い物を届けてもらった、そんな些細な恩を持つ者は少なくなく、ひそかに景一郎は学び舎で尊敬を集めていたのだ。
 必然と恭二郎の周囲からの評価は、あの景一郎の弟というものになった。平々凡々な弟の存在は優秀すぎる兄のおかげでよく注目されていた。だから、恭二郎が同世代の子どもに目を付けられてもおかしくはなかった。良家の子息子女であっても、些細なことで上下を決めつけ、虐げることはよくあった。ただ庶民の子どもと違い、虐げられた理由は体格や性格ではなく、平凡すぎる学力や性格にあった。
 その日、恭二郎は学び舎の庭でうろうろと困った顔で彷徨っていた。休み時間の間に、同じ師に学ぶ子どもに教本を隠されたのだ。庭に隠した、と本人に意地悪そうな顔で告げられ、慌てて探しにきたものの、なかなか見つからない。失くした教本は貴重なもので、師から借り受けたものだった。汚すわけにも、まして失くすわけにもいかない。恭二郎は途方に暮れて、一人で探し続けるしかなかった。
 いよいよ日も暮れて、西から暗闇が迫り始める時間帯。普段ならとうに帰宅して、自室で師に教わったことを復習している頃合いだ。恭二郎は庭の繁みに顔と手を突っ込み、がさごそと土に汚れて教本を探した。そろそろ帰らねば、使用人や両親に心配されて大事になると分かっていたが、庭を離れることはできなかった。
 着物も袖があちこち破れ、手は真っ黒に汚れていた。夕暮れの冷たい空気に晒されて、手足も冷え切っている。繁みや木の枝に引っ掛かって、細かい擦り傷が幾つもできた。学び舎にはすっかり人気もなく、空は暗くなるばかりで、恭二郎は焦りと心細さに今にも泣きそうだった。
 近くから声を掛けられたのは、そんな時だった。

「そんなところで、何をしている?」
「っ……あ、兄上!?」

 ぱっと反射的に振り返った恭二郎は、目を見開いて薄暗い庭に立つ人影を認めた。蒼然とした暮れ方でも、うっすらとその白い肌が浮かび上がり、人影の訝しげな表情がよく見える。蓬色の長着に深緑色の羽織姿で、兄が恭二郎に視線を投げかけて来ていた。
 咄嗟に恭二郎はうろたえ、言葉に詰まった。予想外の人物の登場に驚いたこともあったが、簡単に言えば同じ学び舎の同士に苛められている状況を伝えることに、大きな躊躇いと情けなさがあった。
 悔しげに唇を噛んでうつむく恭二郎をしばらく眺め、景一郎はまた口を開く。

「何があった?」

 再度の静かな問いかけは、不思議なほどするりと恭二郎の心に響いた。侮蔑も嘲りも、疑念さえも含まれない声音はむしろ労わるようで、恭二郎の躊躇いを打ち消していく。
 気が付けば恭二郎は、どもりながらも説明していた。

「その、きょ……教本を、庭に隠され、て」
「まだ見つからないのか」
「は、はい」

 景一郎は恭二郎から視線を外して、暗く翳ってきた庭の全貌を見渡した。いつも人の手で綺麗に保たれた庭は恭二郎のせいでところどころ、荒れている。繁みの青葉が地面に散り、樹木の小枝がちらほらと落ちている。極めつけは、恭二郎の普段では考えられない泥だらけの姿が全てを物語っているはずだ。
 なるほど、と景一郎がつぶやく声を聞いて、恭二郎はいたたまれなくなり視線を彷徨わせた。改めて見回してみれば、教科書を探すためとは言え、ずいぶんと学び舎の敷地を手当たり次第に荒らしてしまったようだ。後日、師たちに謝罪しなくてはいけない。
 また恭二郎はずん、と気分を落ち込ませたが、景一郎の次の言葉にぱっと顔を上げた。

「恭二郎、今日はもう帰れ」
「あ、兄上……?」
「それだけ探して見つからないなら、庭に隠されてないんだろう。もう、日が暮れる。使用人たちも騒ぎ出していたから、帰りなさい」
「でも……」

 恭二郎は困った顔でもごもごと言葉に詰まり、その場に立ち尽くす。奪われた教本はそう簡単に諦められない代物で、景一郎の言い分は最もだが、まだ庭にあるのではという想いを拭いきれない。庭でなくても、外に隠されていて、夜のうちに雨が降ればと考えれば気が気ではなかった。
 それを見て取った景一郎は小さく嘆息した後、固い声音で諌めた。

「お前も大事にはしたくないはずだ。……もう少し、自分がどれほど家で大切にされているか、自覚を持った方がいい。特に母上はお前を溺愛しているからね」
「っ……それ、は」

 ただ事実を述べているだけ、というように淡々とした口調で景一郎は言う。だが表情は硬く、わずかに伏せられた瞳は冷やかな色を隠しきれていない。
 恭二郎は反論の余地もなく、顔を歪めて今度こそ返す言葉を完全に失った。確かに母は恭二郎を過剰に可愛がっている。普通上流階級に属する女主人は、子を産んだ後も生育のほとんどを家人に預けるものだ。例に漏れず、景一郎も躾全般を家人の手によって施されている。だが恭二郎は母に手ずからよく教育を受けていた。それは景一郎に手を掛けなかった反動のようですらあるのだ。
 その母が、帰りの遅い恭二郎を殊更心配していることは想像に難くない。完全に日が落ちれば家人に捜索させるなり、警邏に知らせるなり、必ずするだろう。そして父は何も言わず、母を止めもしないはずだ。そうなれば、教本の件は大事になって学び舎の師の下にまで届くだろう。
 恭二郎は自らの想像にさっと顔色を悪くした。それ以上、景一郎に反論することもできず、こくりと無言で頷いた。

「分かったら、急ぐんだ。日が落ち切る前に戻りなさい」

 それだけ告げると景一郎はあっさりと踵を返して、学舎の奥へ消えていく。
 薄闇に紛れていくその背を見送り、恭二郎は戸惑いの表情で小首を傾げた。景一郎は学舎の門のある方向とは逆の方角に向かって行った。おそらく、自宅に直帰する気がないのだろう。ここに至って、恭二郎は何故景一郎がここに来たのか、ようやく疑問を覚えた。
 しばらく難しい顔で考え込み、有り得ないような発想に達する。

「ぼくを、捜しに来てくれた……?」

 使用人たちが騒いでいた、と言っていたから一度は自宅に帰ったはずだ。ちょうどよく、日の暮れる時間帯に学舎に戻って来る用事ができるとも思えない。学舎に用があっても、奥まった位置にある庭まで来るものでもないだろう。にわかには信じがたいが、口に出せば現実感が湧いてくる。
 もう景一郎の背も見えなくなり、暮れゆくばかりの光景を見つめる。カァ、と空からカラスの鳴き声が届いてはっと我に返った。事実がどうであれ、今は帰宅を急いだ方がいい。一気に焦りを覚えて、恭二郎はたっと走り出した。

(兄上は、どこに行ったんだろう)

 帰宅の途に着き、ただそれだけが頭の中を占めた。そのおかげか、失くした教本の行方まで思考が追いつかず、束の間頭の痛い問題を忘れることができた。