恭二郎が二つ上の兄の存在を知ったのは、三歳の頃だった。同じ家に三年も住みながら、それまで恭二郎は兄の存在を誰からも伝えられず、会ったこともなかったのである。いつも傍に面倒を見てくれていた使用人たちが、おそらく両親の命を受けて二人を会わせないようにしていたのだろう。
 だから、二人が初めて会ったのは完全なる偶然で、珍しく恭二郎の傍に使用人も誰もいない時だった。幼い頃の記憶で曖昧な部分も多いが、その日は確か使用人とかくれんぼをしていたはずだ。まだ三歳の遊びたい時期、勉学にも手を出しておらず、名家ゆえに広すぎる家を存分に使って遊んでいた。
 幼い頃、恭二郎は両親から立ち入りを禁じられていた区域があった。そこに近づかなくても不便はなく、常に使用人が傍にいたことで、三歳まで恭二郎は家の半分がどういう構造をしているのかを知らなかった。
 そして、兄と出会ったのは立ち入り禁止区域に迷い込んだ時だった。当時恭二郎が暮らしていたのは、母屋と呼ばれる場所である。母屋からずいぶんと遠いところに離れがあり、当時景一郎は家族と別に離れで暮らすことを強いられていた。
 まさに目に入れても痛くないほど可愛がられた恭二郎とは違い、目にも入れたくないと言わんばかりの扱いを景一郎は受けていたのだ。
 庭で走り回っていた恭二郎は、使用人の目をかいくぐって離れの近くまで来ていた。当然、それまで足を踏み入れたことのない場所である。ふと気づけば恭二郎は独りになっており、自宅の敷地内で迷子になっていた。
 恭二郎にとって、両親も使用人も傍にいない状況はほぼ初めてであった。ふつふつと込み上げてくる心細さに半べそを掻き始めるのに、それほど時間はかからない。

「……ここ、どこぉ?」

 ぐずぐずと涙を目にためて、恭二郎は辺りを見渡す。
 一邸宅を収めるには広すぎる庭は、種類も分からない木々が茂り、手入れされた細道が迷路のように張り巡らされている。繁みの隙間からは石灯籠がのぞき、小さな湧水の出る池もある。近くにあるはずの建物は植物に完全に隠れ、日本庭園特有の静けさは幼子の不安を煽る効果しかない。
 そのまま道に沿って歩けば、いずれどこかの家屋に行き当たっただろう。だが幼い恭二郎はそこで立ち尽くし、不安げに周囲を見渡す。遊びの熱も、我に返ってしまえば冷めるのは早い。

「だれか」

 恭二郎は声を上げて人を呼ぼうとした。人を求めれば誰かが応えてくれるのは、当時の恭二郎にとって当たり前のことだった。それくらい、屋敷の内で大事にされていたのである。
 だが、そうする前に細道の向こうから小さな足音が聞こえてきた。
 恭二郎はぴたりと一度開いた口を閉じ、そちらに向かって駆け出す。両親か、もしくは使用人の誰かが、飛び石の続く細道の向こうにいると信じて疑わなかった。
 だから草葉の陰から現れた自分より少し年上の少年の姿にとても驚いた。

「「え……?」」

 二人の驚きの声が重なり、お互いにぴたりと足を止めて立ち尽くす。
 恭二郎は視線の先の見慣れない子どもの姿に戸惑った。生まれて以来住んでいる家に、自分以外の子どもがいるのを見たことがなかった。それどころか、同年代の子どもに会う機会にも恵まれておらず、まさに恭二郎にとって少年は未知の存在だった。
 硬直してしまった恭二郎とは反対に、すぐに少年は我に返った様子だった。どこか見覚えのある白皙の顔を小さく歪め、一歩二歩と恭二郎の方に近づいてくる。子どもの小さな足では二人の距離を縮めるのに多少の時間がかかり、それがずいぶんと長く恭二郎には感じられた。
 少年は瞳こそ黒かったが、伸ばされた髪は見慣れない栗色をしていた。その肌も他の人間よりずっと白く、今まで見たことのない薄い色彩がとても印象的だった。
 恭二郎の二歩先で立ち止まり、少年は厳しく強張った表情のまま口を開いた。

「まさか、恭二郎?」
「え……、は、はい」

 恭二郎は名前を当てられたことに驚き、こくこくと頷く。それを見た少年の表情が険しさを増したが、混乱の渦に陥った恭二郎は気づかない。
 少年は口を一文字に閉じ、じっと様々な感情の籠った暗い眼差しを恭二郎に注いだ。
 二人の間に緊迫した空気が流れ始め、居心地が悪くなった恭二郎は困惑した顔になる。

「あの、あなたはだれですか?」
「ぼくは……」

 少年は睨むように目を細め、よく耳を澄まさなければ聞き取れない、かすれた声で言った。

「お前の、兄だ」
「あに? ……ぼくの、あにうえ?」

 きょとん、と恭二郎は目を丸くして少年を見つめる。
 まだ三歳の恭二郎は兄、という存在の意味をきちんと理解していたわけではない。ただ兄とは自分の家族、あるいは同じ血を引く者のことだと曖昧ながら感覚で理解していた。
 当然、その存在を誰からも知らされていない恭二郎は困惑した。どう反応すべきか分からず、ぽかんと間抜けな顔で立ち尽くす。
 少年はそれを怒ったような、辛そうな顔でずっと見ていた。

「どうして、ここにいるんだ。ここには来るな、って言われていないのか」
「ぼ、ぼく。あそんでて……ここ、どこか、わからなくて」
「迷ったのか」
「あ、はい」

 はぁ、と重いため息を少年は吐く。
 どう見ても友好的ではない姿に恭二郎は身を縮め、おろおろと視線を彷徨わせる。

「――付いて来い」
「え……、あ、まって!」

 しばらくの沈黙の後、少年は恭二郎に背を向けて歩き出した。
 恭二郎は徐々に遠くなる少年の背を呆けた顔で見つめ、慌てて後を追いかけた。どこへ行くのか、と声を掛けるのも躊躇われて、黙ったまま一定の距離を空けて付いて行く。何度か、足元の飛び石が示す道は枝分かれしたが、少年は迷う素振りもなくすいすいと庭を分け入っていく。
 やがて、周囲の樹木が減って見覚えのある光景になり始めた頃、ぴたりと少年は足を止めて恭二郎を振り返った。その暗い眼差しに射られた恭二郎はびくっと身を震わせるが、少年は無視して細道の先を指し示す。

「あっちが母屋だ。もう、こっちには来るな」
「え?」

 それだけを少年は淡々と告げ、さっさと踵を返して細道の向こうに行ってしまう。
 恭二郎も慌てて後を追って行き、ぱっと視界が開けて見慣れた日本家屋が威風堂々と建っているのを見つけた。だが少年はそちらに足を向けず、別の細道からまた庭の奥へ消えていく。
 しばらく恭二郎は呆然と立ち尽くし、ようやく母屋まで送って少年にもらえたことを理解した。その直後に恭二郎を呼ぶ使用人の声が聞こえて来て、はっと我に返る。咄嗟に怒られる、と身を竦めて慌てて使用人の声のする方へ走り出した。

(あ……ありがとう、っていってない)

 そう思い至って恭二郎は振り返ったが、すでに少年の姿はどこにもなかった。


――これが、兄弟の初めての邂逅だった。