さらさらと涼風が吹き、桃色の花びらが空を舞いどこかへ流れていく。花の盛りを迎えた桜の大木の周囲には花びらがてんてんと散り、大地を美しく彩っている。もう何年もそこに在り続けている桜は、川沿いの道に一本だけ植えられ、他に桜の木は見当たらない。だが桜の大木は堂々と咲き誇り、寂しさとは無縁の華やかな春景色を生み出している。
 その桜の大木の下、緩やかに流れる川の方を向いて一人の男が立っている。はらりはらり、と舞い散る花びらが時折着流しの裾にくっつくが、気にする風もない。三十代ほどの男はただ、腕を組んで瞑目し、何かを待っているようだった。
 不意に男はざわり、と辺りの空気が変化したのを感じて眼を開ける。まぶたの下に覗く漆黒の瞳は、どこか緊張したような色を宿していた。男はつい、と首だけを動かし、桜の大木と反対の方向に目を向ける。
 そこに佇む懐かしい姿を捉え、男はくしゃりと幼げに顔を崩した。

「お久しぶりです。……兄上」
「久しぶりだね、恭二郎」

 男――恭二郎の視線の先で、兄と呼ばれた者は穏やかに目を細め、微笑んでいた。その者は一目で異国の血を引くと分かる容姿をしている。肩にまで掛かる、無造作に伸びた髪は栗色で、花紺色の着物から覗く肌は健康的に白い。
 ただおかしいのは、兄と呼ばれるにはその者は若すぎた。恭二郎はそろそろ三十代に入り大人の男としての貫録が付き始めているが、その者は二十代前半ほどにしか見えないほど若々しい。外見に相似する点もほぼなく、唯一共通するのは身に纏う柔らかい雰囲気だけだ。
 恭二郎はかつてと何も変わらない兄――景一郎の姿に安堵とも、喜びとも付かない感情を抱く。不自然なほど外見に変化はないが、うららかな日差しに溶け込むような穏やかな眼差しを兄から受けたのは、三十年近い人生の中で初めてのことだった。
 恭二郎の二つ上の兄、景一郎は十年以上も前に家を出奔し、それ以来、今日この日まで一度も二人は顔を合わせていない。景一郎の事情をそれとなく察し、出奔に手を貸した恭二郎も、二度と会う日は来ないのではと覚悟していた。
 しかし、三日前。恭二郎の書斎に一通の知らせが届いた。いつの間にか、書斎の机の上にぽんと置かれていたそれには、三日後に会いに行く旨が簡潔にしたためてあった。景一郎が把握していたかは分からないが、その日はちょうど恭二郎の仕事も休みで、会うことに問題はなかった。
 当初、その手紙を読んで恭二郎の持った感想は意外、の一言に尽きる。二人は決して仲の悪い兄弟ではなかったが、家庭環境の問題ゆえに互いに複雑な感情を抱いている。特に恭二郎は兄に恨まれていてもおかしくはない、と冷静に考えていた。
 だから久しぶりの再会を前に嬉しい反面、少しばかりの不安も抱いていた。

(それも杞憂だったようだけど)

 恭二郎はゆっくりと歩いてくる兄に向い直り、小さく笑って呼びかける。

「……兄上、酷いですよ。約束、破ったでしょう?」
「約束? ……ああ、もしかして結婚式のことかな」
「はい。参列してくれると言っていたのに」
「すまない。でもぼくが顔を出すのは、ちょっと問題があるだろう?」

 景一郎はすぐ近くまで来て足を止めると小首を傾げる。
 約束とは景一郎が家を出奔する際に二人が交わしたものである。迎えに来た小さな義姉と手を取り、去っていく寸前に景一郎は恭二郎の結婚式には顔を出すと言っていた。もちろん、恭二郎もその口約束を真に受けてはいなかった。無断で出奔した元・跡継ぎの兄が恭二郎の婚姻の席に顔を出しても、起こるのは混乱のみである。もともと実家は景一郎が気軽に顔を出せる場所でもなかったからなおさらだ。
 それでも恭二郎は少しだけ、期待していた。もしかしたら、という淡い期待はあっさりと破られたが、特に兄を責める事柄でもないだろう。だが文句のひとつくらいは言っても問題はないはずだと思い直して、恭二郎は軽く兄を責めた。

「お祝いの言葉の一つ、送っても良かったのでは?」
「うーん、悪いことをしたと思っているよ。でも、ちょうどその頃、彼女が体調を崩していてね。手が回らなかったんだ」
「義姉上が? 大丈夫なのですか?」
「まぁ、必要な眠りらしいし、もう安定してるから。心配しなくていいよ」

 景一郎の言葉は容量を得ない曖昧なものだが、恭二郎は深く詮索しない。
 一度だけ会った義姉、つまり景一郎の嫁はとても不思議な人だった。珊瑚色の打掛を纏い、赤い唐傘を差した小柄な体躯はまるで十歳かそこらの子どものようであった。だが夜空を思わせる瞳に浮かぶ色は長い時を経た年寄りのように落ち着いていた。何もかもを包み込む優しい雰囲気を持った美しい女性だったと記憶している。
 恭二郎は詳しく知らないが、彼らの付き合いは景一郎が幼い頃から続いている。それを仄めかすことを義姉も述べていたし、恭二郎もずいぶん前から義姉の存在をそれとなく知っていた。兄は彼女をただの友人、としか語らなかったが、兄の様子を見れば友人以上の存在だとすぐに分かった。
 実家でも、弟の恭二郎の前にも、景一郎は笑みひとつ見せたことはなかった。いつも、強張った笑みか冷笑を浮かべ、感情の抜け落ちた無表情を保っていた。その景一郎が義姉の話をする時はほんの少し、柔らかい自然な表情をしていたものだ。
 景一郎にとって、彼を取り巻く周囲の環境は家庭を含めて厳しく、地獄のようだっただろう。だから恭二郎は少しでも景一郎が心を休められる地を持っていることを、密かに安堵していた。
 そして景一郎が義姉と駆け落ちして、十年以上が過ぎ去り、恭二郎はその背を押した自分の選択が間違いではなかったと確信した。景一郎はこうして普通の兄弟のように、自然な表情を向けてくれるようになったのだから。

「ところで兄上、いきなりどうしました? いえ、兄上と会いたくなかったわけではありませんが何分唐突でしたので」
「息子が生まれたと聞いてね。今度こそ、お祝いくらい述べたいと思って」
「なるほど。息子が生まれたのは三ヶ月前ですが……」
「忙しい時に時間を割いてもらうのは悪いから」

 景一郎の言う通り、恭二郎には生まれて三ヶ月を迎える息子がいる。二年ほど前に商家の娘と周囲の反対を押し切って結婚し、生まれた待望の跡継ぎである。当時は難産で嫁の産後の肥立ちも悪く、ようやく最近母子の体調も安定してきた頃だった。
 どこまで景一郎が恭二郎の状況を把握しているかは分からないが、取り敢えず恭二郎は得心の入った顔をして祝いの言葉を受け取る。

「少し遅くなったけど、これ、ぼくたちからの祝いの品だ」
「わざわざすみません。義姉上にもお礼を伝えておいてください」
「うん」

 祝いの品を貰い受けた恭二郎は、素直に礼を言った後に小首を傾げる。
 手渡されたのは一輪の花だった。杜若と呼ばれる花で、記憶が確かならもう少し温かくなって咲くはずの花である。何より、美しい花ではあるが祝いの品として手渡すものではない。
 恭二郎の疑問を察した景一郎が、ああと言って説明する。

「その花には幸運を招く効果があるらしい。そう呪いが掛けてあるって彼女が言っていた。普通の花に見えるけど、枯れないんだ。どこか日差しの良い場所に飾っておけば、縁起がもっとよくなるとか。……嘘みたいな話だけど本当の話だ。まぁ、どう扱うかは任せる」
「幸運ですか、それはいいですね。書斎の窓際に飾っておきます」

 ありがとうございます、と言えば景一郎は苦笑を浮かべる。

「お前は何も聞こうとしない。普通は信じられないことを言っている自覚は、ぼくにもあるんだ」
「それは……、そういうものだと納得しています」
「そうしてくれると有り難いよ」

 景一郎の周囲には常識で考えて有り得ないような、不可思議なことが多い。恭二郎もそれを疑問に思わないわけではないが、答えを求めたことはない。恭二郎に理解できるものとも思えず、また不可思議な現象を簡単に納得できるくらいには、恭二郎にとって景一郎は遠い存在だった。
 恭二郎は杜若の花を一度じっと眺め、ふっと微笑して言う。

「こんなところで立ち話をするのも難です。近くの茶屋にでも行きませんか」
「そうしようか」

 景一郎も快く承諾し、二人は桜の大木の下を離れて歩き出す。
 隣を歩く景一郎はのんびりとしていて、恭二郎は同じ場所にいるのに別の時間を生きているような感覚に陥る。

(実際にそうなのかもしれないけど)

 恭二郎は景一郎の生活を何ひとつ知らない。どんな場所に住んでいて、誰とどのように暮らしているのか、想像することさえできない。唯一判るのは、日々を仕事と家庭に忙殺される恭二郎とはまったく異なる生活をしているということだけだ。
 恭二郎は生まれを同じくしながら、まったく共通点のない兄を横目に、不思議な感慨を抱く。そして唐突にその正体に気付いた。

(ああ……、こうして一緒に歩くことすら、初めてなのか)

 隣を景一郎が歩いている、それは恭二郎の初めて体験することだった。ずっと、幼い頃から景一郎の強い拒絶を孕んだ背中しか見たことがなかった。正面から相対すれば、何を考えているのか分からない無表情が恭二郎に拒絶を返してきた。だから、実の兄弟でありながら二人はこれまで一緒に肩を並べて歩くことさえ、なかったのだ。
 気付いてしまった事実に小さな胸の痛みを感じる。それは若い頃、自分と真反対に過酷な環境に身を置く景一郎へ抱いた痛みと同じものだった。いつも、周囲の不当な兄の扱いに罪悪感と憤りで胸を痛め、何もできずにいた――あの痛み。
 しかし、恭二郎はもう当時のような若く未熟な身の上ではなかった。一歩、兄に歩み寄ることもできなかった臆病な若者ではない。
 恭二郎は近くの大通りの方へ足を向け、隣の兄に言う。

「兄上。良い機会ですから、今日はいろいろ話を聞かせて下さい。昔のことも、今のことも」
「……恭二郎?」

 景一郎は不思議そうな、困惑の混じった表情をしていた。
 そこに拒絶の色がないことに安堵して、恭二郎は昔できなかった一歩を踏み込む。

「もう、兄上がこの地を去って十四年です。今だからこそ話せることも、お互いあるでしょう。わたしは貴方のことをもっと分かりたい。――本当はもっと早くにこうして、話をするべきだったように思うのです」
「確かに、そうだ。ぼくらは兄弟なんだから。……不甲斐ない兄で、すまない。本来なら、そう切り出すべきは兄のぼくであるべきなのに」
「いいえ。兄上を不甲斐ないなど、わたしは思ったことはありませんよ」
「……まったく。お前はぼくに似合わないほど、よくできた弟だよ」

 景一郎はお世辞と判断したのか、眉を下げて苦笑している。
 だが、それは恭二郎の紛うことなき本音だった。恭二郎は一度たりとも、景一郎を兄として不甲斐ないと感じたことはない。一般の兄弟らしい触れ合いはなかったが、今も昔も兄として慕っている。恭二郎は、兄以上に強い人をいまだ知らなかった。
 生まれ持った容姿ゆえに迫害されてきた景一郎の子ども時代は、恭二郎の目から見てもとても厳しいものだった。誰一人、親でさえも景一郎に温かい言葉ひとつ掛けることはなかった。そんな中にあって、景一郎は誰に頼ることもなく独りで黙って耐え続けていた。決然と独りで嵐の中に立ち、折れて屈することはなかった。
 何をすることもできず、兄の背を見続けてきた恭二郎は孤独だった兄の強さを知っている。だからこそ、もし自分が同じ立場に立った時、同じようにできるかどうかは、まったく自信がない。兄のように、必死に前を向いていられるかどうか。
 恭二郎は内心の言葉を呑み込み、遠い日の記憶に想いを馳せる。――同じ家に住みながら、高い壁で互いの間を隔てていた子ども時代に。