ぴちょん、と耳に入っても気付かないような小さな音を捉えた。
 うつらうつらとした意識には、些細な音は捉えても認識するまで及ばない。ぴちょん、と長い間を置いて続く音を聞くともなしにぼんやりと耳にする。
 ふと自分の身が普段と比べて温かい気がした。熱すぎるわけではない、新たなまどろみを誘うような魅惑の温かさだ。ずっと、その温もりに身体を浸していたくなる。
 うっすらと目を開くと温かさに違わぬ、穏やかな日差しが降り注いでいるのが判った。

(……日差し?)

 そこでようやく、違和感を覚える。最近はこれほど落ち着いた天気を見た記憶は――

「っ……!?」

 次の瞬間、十澄は息を呑んで目を見開いていた。
 太陽の日差し、それは紅姫が寝込んでから久しく睡蓮邸に訪れていなかった自然の恵みである。睡蓮邸の主がその深い眠りから目覚めない限り、見られないはずだった。
 今までゆっくりと覚醒に向かって移ろっていた意識は、すでにこれ以上ないほどはっきりとしていた。ほとんど飛び起きるように上半身を起こし、何かを探して視線を彷徨わせる。

「おや、もう少し寝ていても良かったであろうに」

 少し残念がるような、透き通る声に惹かれて視線を一点に寄せる。
 そこには白い寝着姿で敷かれた寝具の上に座った、恐ろしいほど美しい少女がいた。寝着から覗く肌はより白く、小ぶりな唇は健康的な桃色、背より長い髪は艶やかで、その双眸は夜を思わせる純粋な漆黒だ。
 十澄はどれほど傍にいても見慣れない美貌の女性を呆然と見つめた。

「十、純」
「良い眠りであったか? 十澄」
「……それは、ぼくの台詞じゃ、ないかな」

 普段と何も変わらない調子で問いかけられ、十澄は混乱をきたしながらも言い返す。
 紅姫は端正な顔に微笑を浮かべ、それもそうじゃなと頷く。

「えーと、ずいぶん……早かったね?」
「眠りのことかの?」
「うん」

 風切姫から紅姫の目覚めの時が例年より早まっているとは聞いた。しかし眠った感触からして、十澄はあれからそう長くは眠っていないだろう。少なくとも一日は経過していないはずだ。それを考えると異例の速さで紅姫は目覚めている。
 紅姫も考え込む様子を見せる。

「ふむ。そうじゃな、今回はわらわの魂に掛かった負担が少なかったということであろう。眠りの深さは魂に蓄積された疲労の度合いに寄るゆえ」
「そっか。それは良いこと、だよね?」
「無論じゃ」

 眠りに落ちる前の風切姫との会話を思い出しつつ、十澄はほっと安堵する。起きてすぐに緊張で強張った身体が弛緩して、どっと身体の重さを感じた。ゆるゆると息を吐き出し、今まで寝ていた寝具に再び身体を横たえる。
 紅姫はまだ何かを考え込んでいるようだった。

「……十純」
「何じゃ?」
「風切姫が言ってたんだけど、今回の目覚めが早かったのはぼくのせい?」
「ううむ、その可能性は高いの」

 紅姫は華奢な身体を動かして隣の寝具に横たわった十澄の真横に寄ってくる。そのまま、寝起きにも関わらず弱冠疲労の見える十澄の顔を覗き込む。
 十澄は目を瞬かせて、何も言わずにその行動を見守っていた。

「十澄よ、わらわたち墓守が百年で積み重ねる魂の傷で、最も大きな傷は何だと思う?」
「最も大きな傷……?」
「そうじゃ、簡単に言えば心の傷かのぅ」

 あどけない顔に似合わない、年を経て得た穏やかな表情で紅姫は笑っている。
 十澄はしばらく一人で頭を悩ませたが、所詮三十年と少ししか生きていない人間には確信を持って言える答えはなかった。
 分からない、と正直に首を横に振ると紅姫は一瞬だけ瞑目して答えた。

「――孤独じゃ」
「……孤独?」
「そう。わらわたち墓守は常に独りきり、例えどれほど他の者が使えてくれようとも、あやつらは客を墓池に送るわらわの傍にはいてくれぬ。独りで多くの死に触れ、その終わりを見送る……それはとても、重く寂しいものじゃ。わらわたちには死すらないと言うに、その死を他の者に贈らねばならぬ。――その羨ましさや醜い嫉妬、そして独りで延々と使命を果たす孤独感。それこそが、墓守の最大の魂の傷よ」

 紅姫は淡々と事実を語っていたが、その表情は雄弁に内心を表現していた。夜を秘めた瞳には暗い影がちらちらと浮かび、いつも柔らかに持ち上がった頬は強張っている。
 千年どころではなく何万年の歳月を歩み、傷つきぼろぼろになった墓守の姿がそこにあった。

(……あぁ、やっぱり)

 滅多に見られない紅姫の弱った姿を、十澄は納得と少しの既視感を覚えて見つめる。
 誰よりも熟成した女性の中にこの弱さを初めて見つけたのは、十澄がまだ幼い子どもの時分だった。睡蓮邸に入りびたり始めて一年ほど経った頃に、やっと十澄は紅姫の傷を認めた。
 それは他の誰とも違う、異物として扱われる自分の孤独によく似ていて。誰も傍にいてくれない、どこにも自分と同じ存在がいない、そんな寂しい傷だ。
 だから十澄は紅姫の傍にいようと決めた。紅姫に無茶を言って頼み込んで、彼女が妖怪たちの魂を墓池に眠らせるその時も、ずっと傍にいようとした。そのせいで何度身体に傷を作ったか分からないが、今でも十澄はそれをやめようとは思わない。
 客が来る度に紅姫や睡蓮邸の住民に心配を掛けてしまい、申し訳なくなる。それでも今の紅姫の言葉と態度を見れば、十澄の選択は間違っていないと思えるのだ。

「……ぼくは少しでも君の傷を減らせた?」

 すっと手を伸ばして、紅姫の強張った頬に触れて問う。
 紅姫は一瞬泣きそうな顔をして微笑んだ。

「これでもお主には感謝しておる」
「それは、ぼくの台詞なんだけどな」

 初めに手を差し伸べてくれたのは紅姫の方だった。彼女が十澄を地獄のような世界から助け出してくれたから、十澄は紅姫の手を取ることができたのだ。
 紅姫は頬に触れる十澄の手の甲に自分の小さな手の平を重ねる。

「わらわは怖い」
「……十純?」
「お主は人間。高い知性を持つ生き物の中で最も弱く、儚い生き物じゃ。……お主もまた、いつかわらわを置いて逝く」
「それ、は」

 反論できない真理に十澄は言葉を詰まらせる。
 単純に考えて、十澄が紅姫を置いて逝くことはあっても紅姫が十澄を置いて逝くことはない。生まれ持った身体の機能が違う。二人の別れは必ず、いつか訪れるだろう。
 だが十澄はそれでも反論せずにはいられなかった。例えそれが、夢よりも脆い考えであっても。

「大丈夫だよ、十純」
「ほう?」
「ぼくは十純を置いて逝かない。ぼくの時計は君が消滅する瞬間まで、針を止めたりしないよ」
「……何の保証がある?」
「さぁ、この場所では有り得ないことも現実になるみたいだから」

 十澄は曖昧に微笑んで、十年経っても張りの一向に衰えない自分の手に視線を向ける。
 その言葉の意図を読んだ紅姫もじっと十澄の顔を見つめた。

「お主は変わらぬな」
「そうだね。君か、ぼくか、それとも他の何かが……そうなることを望んでる。だからぼくは十純から離れたりしないよ」

 しばらく二人は互いに無言で見つめ合ったが、どちらからともなく表情を崩した。

「よい、わらわがつまらぬことを申した」
「ぼくもだ」

 例え墓守とは言え、これから先に広がる未来は分からない。十澄の言葉が成るか、違えられるか、それも永い年月が経てば自然と分かることだろう。
 紅姫は身を引いて十澄から少し身体を離し、自分の寝具の上に戻る。

「不思議なことに、わらわはまだ眠い。今しばらく寝ることにする」
「そっか。じゃあ、一緒に寝よう」
「ふむ、新鮮じゃな」
「普段十純は寝ないからねえ」

 二人は面白そうに顔を見合わせると自分たちの寝具に身体をごそごそと潜り込ませる。
 十澄は自然な動作で隣の紅姫に片手を差し出していた。
 紅姫は目を細めてそれを見つめ、同じように手を差し出して握る。

「懐かしい。お主が子どもの頃、よく泣き寝入りしておった時にこうして手を繋いでやったものじゃ」
「そうだったかな」
「そうじゃ。あの子どもが、もうここまで大きくなるとはのぅ」

 人間の成長はほんに早い、と寂しさや懐かしさの混じった眼差しで紅姫はつぶやく。だがその目はすでに押し寄せる眠気でとろんとしてきている。
 普段見ることのできない眠気の混じった表情は、紅姫の容姿をさらに幼く見せる。とろとろと紅姫の目は閉じられ、ほどなくして穏やかな寝息が辺りに響く。今の紅姫の顔色は以前よりも回復して、本当にただの少女が寝ているように見えた。
 十澄はじっと紅姫の眠る様子を眺めていたが、ふっと微笑んで目を閉じる。

 やがて蓮華の間に二人分の穏やかな寝息が静寂の中に響き出す。眠りに就く二人の表情はどちらも前回までのものより格段に穏やかだった。