「あらぁ、まだ起きてたの?」

 涼やかな微風と共に入ってきたのは、半透明の姿でふわふわ浮いた風切姫である。風切姫は十澄を認めて小首を傾げると風に乗って傍に寄ってくる。
 普段の風切姫なら盛大な音を立ててふすまを開け、小さな竜巻を思わせる勢いで話しかけてくる。くるくるとよく動いてよく喋る、それが十澄の風切姫に対する印象だったが、紅姫が眠りに就いてからはそれもなりを潜めていた。
 風切姫もまた、十澄ほどではないにしろ、眠りに就いた主を気遣っているのだ。
 紅姫が眠りに就いてから、睡蓮邸はいつにも増して静かになっていた。その日常から離れた空気がまた、十澄の不安を煽る原因にもなっている。
 風切姫は可愛らしい顔をしかめて、ほらほらと催促する。

「もう夜でしょ。人間はひ弱なんだからとっとと寝ちゃいなさいな」
「うーん……、それができたらいいんだけどね」
「んもぅ、まだ心配してるわけ!? 紅姫様は大丈夫よ、これまでだって何にも起こらなかったんだからね。貴方たち人間だってよく寝るじゃない。紅姫様もそれと一緒よ! ちょっと人間より周期が長いだけなの」
「そう言われるとぼくも反論できないなぁ」

 十澄とて、この不安や心配が杞憂だと理性では分かっている。それでも感情は納得できず、こうして一睡もせずに紅姫の傍に付いているのだ。
 それを風切姫も理解しているのだろう。風切姫は困った子を見るような目で十澄を眺め、子どものように頬を膨らませる。

「十澄ってば、昔からそういうところは頑固よねぇ。もう少し柔軟になったらどう?」
「……」

 風切姫の言葉も最もで、十澄は何も言えずに苦笑を洩らす。十澄としても、そうしたいのは山々であったが、生まれ持った性格ばかりは矯正し難い。何よりもっと器用だったなら、十澄は今ここにいることはなかったかもしれない。
 十澄の表情を見た風切姫は不満そうな顔のまま言った。

「ま、いいけど。それより、紅姫様の隣でもいいから横になっておきなさい。もしかしたら眠れるかもしれないわよ? それに紅姫様が起きたらお客様はどどっと来るんだからね、あんたの寝る暇なんてないわ」
「……うん。そうするよ」

 本来、睡蓮邸には一日も途切れることなく妖怪の客たちが訪れるものだ。その唯一の例外が、墓守たる紅姫の百年に一度の眠りの時期である。紅姫が眠る間、睡蓮邸は妖怪の目から逃れて客の訪れを拒む。しかし睡蓮邸を求める妖怪たちの数が減るわけでもないので、紅姫が眠りの期間を過ぎた後は怒涛の勢いで客たちが訪れるらしい。
 十澄も彼女の眠りの期間に遭遇するのは初めてだが、客が一日に何体も訪れて屋敷中が騒がしくなるのは容易く予想できた。
 そして客が睡蓮邸に滞在する間、十澄は一睡もできない。睡蓮邸では紅姫の傍に控える以外に取り立ててすることもない十澄だが、客のいる時の最大の役割は無事にいることなのだ。
 自由奔放な妖怪たちは自制を知らない。他人の屋敷であっても土足で踏み込んで騒ぐし、平気でそこらのものを食べたり壊したり害したりする。
 うっかり、一人で客に遭遇してしまった時はまず逃げだすのが賢明だ。毒を嗅がされる、殺されかける、喰われかける、玩具にされる、など何をされるか分かったものではない。
 ただでさえ人間は非力な生き物なのだ。妖怪を相手取った大立ち回りは、妖怪退治を専門とする者くらいにしか不可能である。
 十澄は紅姫が目覚めた後の苦労を想像して、大人しく風切姫の言葉に従うことにする。眠れるかはどうかはともかく、少しでも身体を休めておいた方がいい。

「ほらほら、早く準備しなさいな。時間はそんなに残ってないわよ、きっと。すぐに寝具は鬼丸に持って来させるから」
「時間がないって?」

 もし紅姫の話の通りなら、あと一日以上は目覚めないはずだ。それならば、十澄が身体を休める時間もそれなりに残っている。
 不思議そうに十澄が小首を傾げると風切姫は秀麗な顔にしわを寄せて言う。

「それがねえ、今回は少し早くお目覚めになりそうな気配なのよ」
「十純が? というか、そんなこと分かるのか」
「分かるわよ。何年紅姫様にお仕えしてると思ってんの」

 自信満々に風切姫は胸を張り、細い指を立ててくるっと回す。それと同時に微風が部屋の中に吹いて、開けっ放しになっていたふすまを抜け、さぁっと廊下の方角へ駆け抜けていく。
 おそらく風に乗せて鬼丸に伝言を届けたのだろう。寝具を一式蓮華の間に持ってこい、と。風送りと呼ばれるそれは相手の耳元で囁くように言葉を伝える技である。唯一の欠点は風切姫からの一方通行であることだ。

「そうね、紅姫様の顔色を見てごらんなさい。少し顔色が良くなってるでしょ?」
「……うん、まぁ、初めに比べれば」

 二人の視線の先では、真っ青な顔色で紅姫が眠っている。
 眠りに就いた当初は紙のように真っ白な顔色で、端正な顔立ちと相まって精巧な蝋人形を思わせる様相をしていた。それは誰が見ても彼女の生命の危機を懸念せずにはいられない様子で、当初に比べると顔色は若干良くなったとは言え、いまだに十澄は心配になってくる。
 複雑な表情をする十澄の頭上で、風切姫は説明を続行する。

「例年だと、これくらいの顔色になるのに三日は必要だったはずなのよ。でも今回は回復の速さが尋常じゃないわ。紅姫様は早ければ三日、なんて仰っていたけど紅姫様ご自身が三日で目覚められたことなんてないの。あれは他の墓守の方の例よ。――でも、この分だと三日と言わないわね」

 もっと早く目覚められるかも、と風切姫は冷静に分析する。
 今回初めて紅姫の眠りを体験する十澄には判断材料もないため、風切姫の言葉を信じるしかない。

「何となく分かったけど……何で、回復が早いんだろう?」

 十澄が小首を傾げていると風切姫が眉を顰めて見てくる。

「風切姫?」
「うーん……、確証はないけど、貴方のせいかしらね?」
「ぼく?」
「だって、今までとの違いはそれしかないじゃない」
「そりゃ、そうなのかもしれないけど」

 風切姫と十澄は不可解そうな顔を見合わせる。
 十澄としても、自分が原因と言われても何をした覚えもないので困惑するしかない。第一、紅姫の目覚めが早くなることは良いことなのか、悪いことなのか、それすら判断は付きかねる。
 二人の間に微妙な空気が流れ始めた時、ちょうどよく蓮華の間の入り口に何かの気配を感じた。

「……あれ?」
「あらぁ、蒲団に足が生えてるみたいねえ」

 開け放たれたふすまの先、本来なら入室者の姿が見えるはずだが、今二人の側から見えているのは、敷き蒲団や枕の積み重ねられた寝具一式とその下にちょこんと生えた二つの小柄な足だった。
 風切姫の言葉の通り、寝具から足が生えた新手の妖怪のようである。もちろん、そんなはずもなく正体は抱えた寝具で姿の見えない鬼丸だ。

「ひつれい、いたしまふ。ひんぐをおもちひたひました、そずみさま」

 ふがふがと何かに口を塞がれたような声が届く。抱えた蒲団に顔が埋もれて上手く話せないのだ。
 十澄は無意識に緩みそうになる顔を意識して引き締めた。ここで笑えば、いたく鬼丸を傷つけてしまうと配慮した結果だった。
 しかし付き合いの長い風切姫はあっさりと笑い声を上げる。

「ぷっ、くくく、あははは、何よ、その格好! 鬼丸、貴方の今の格好を鏡で見せてあげたいわ!すっごく面白いわよ」
「ふぬぬぬ、わたしはへつにわらいほさそってるふぁけでは」

 蒲団の向こう側で、涙目で顔をしかめる鬼丸の顔がありありと想像できた。つい、十澄も堪えきれなくなって口元が緩む。蒲団のおかげで鬼丸にそれを悟られなかったことだけが救いだ。

「ありがとう、鬼丸。それ重いだろ、代わるよ」

 十澄が寝具を受け取ろうと近寄ると寝具がふるふると横に揺れた。

「鬼丸?」
「ひひえ、ほずみさまのおてをふぁずらわへるわけにはひきません」
「いや、でも……それぼくが使うものだし」

 困った顔になって十澄が言うとまた寝具は拒絶するようにまたふるふると揺れる。
 その様子に笑いを抑えながら眺めていた風切姫が割って入る。

「いいのよ、十澄。鬼丸にやらせなさいな。それが鬼丸の性分なんだから」
「……分かったよ」

 十澄は苦笑して大人しく引き下がる。
 鬼丸の世話焼き気質は幼い頃に睡蓮邸に入りびたり始めてから今までで、嫌と言うほど理解していた。多少ドジな面を除けば、彼は立派な使用人気質なのである。
 許可を得た鬼丸は蓮華の間の中央にとことこと歩いてくる。自分の身体より面積のある寝具を抱えても、その足取りはしっかりとしている。鬼丸は危うげない動作で寝具を床に下し、てきぱきと無駄なく寝具を広げていく。
 ものの数秒も経たずきっちり揃えられた寝具を眺め、十澄は感嘆の吐息を洩らした。

「ありがとう、鬼丸。面倒を掛けさせたね」
「いえいえ、お気になさらないでください。私は十澄様のお役に立てれば満足でございます」
「そうよぉ、鬼丸は働かせてなんぼなんだから」

 余りと言えば余りの風切姫の言い様にも、鬼丸はにこにこと笑って頷く。
 十澄は鬼丸が何かに怒ったり、面倒くさがるところを一度も見たことがない。他の者にしても、鬼丸のそんな姿は見たことがないらしい。
 たまには休みでも取れば、と思って進言したことがあるが、本人は暇な時間があると逆にそわそわしてしまうと困った顔で言っていた。鬼丸にとっては働くことが趣味なのだろう。

「それでは、良きお眠りを、十澄様」

 深々と頭を下げて鬼丸はそそと蓮華の間を出て行く。
 それに風切姫もふわふわと宙を移動して後に続いた。

「しっかり休みなさいよー?」
「うん、善処するよ」
「信用ならない答えねえ」

 懐疑的な視線を十澄に向け、風切姫はため息を吐く。それ以上は言っても無駄だと風切姫も悟ったのだろう、文句はそれだけに留めて蓮華の間を出て行った。
 ゆっくりと絶妙な風加減でふすまは閉まる。
 紅姫と二人きりで残された十澄は、眉を下げ申し訳なさそうな顔でふすまを眺めていたが、首を振って視線を寝具に移す。
 あれだけ言われたのだ、ふりだけでも眠る態勢になった方がいい。

「次に目が覚めた時には……会えるかな」

 十澄が目を覚ました時、紅姫も目を覚ましていたらいい。
 望みの薄い願望を口にして、十澄はごそごそと用意された寝具に横たわる。横を向くとすぐ傍に紅姫の人形のように端正な顔が目に留まった。
 しばらくじっと紅姫の青白い横顔を見つめ、そっと手を伸ばす。掛け蒲団の下に隠れていた紅姫の華奢な手を取り出して握り締めた。ほんのわずかだが、確かに生物の体温を感じる。

「……お休み、十純」

 十澄は紅姫と手を繋げたまま、ゆっくりとまぶたを閉じた。十澄の意識は変わらず明朗で、なかなか眠りの訪れる兆しはなかったが、紅姫の手から伝わる微かな体温が徐々に十澄に安らぎを与えてくれる気がした。