しとしとと小雨が窓の向こう側で降り続いている。空は薄く広がる灰色の雲に覆い隠され、太陽の光は地上に届かない。雨音は小さいながら途切れることはなく、確実に外の世界を濡らしている。
 外と内を隔てるガラス窓から十澄は静かに外の様子を眺めていた。
 この雨が降り出したのは、だいたい一日ほど前だったか。睡蓮邸は良くも悪くも時間の流れが緩やかで時間感覚を麻痺させるため、その辺りは十澄も曖昧で自信がなかった。
 それより問題なのは、睡蓮邸の空模様が一貫して変わらず、小雨続きだということである。
 不思議なことに睡蓮邸の天候は客がいる時は客の感情を、それ以外の時は睡蓮邸の住人の感情を反映したものとなる。客が睡蓮邸で暴れた時は雷が落ち、睡蓮邸の主たる紅姫が微笑めば季節に関わらずうららかな日差しが降り注ぐのだ。
 感情と言うのは変化しがちで、雨が降るにしても一定の雨足が一時間以上続くことはほとんどない。それが、雨足すら変えずに何十時間も雨が振り続けている。異常と呼んで差支えない事態であった。

「まったく……」

 十澄は一向に変化の兆しを見せない空から視線を逸らし、はぁとため息を吐く。
 この異様な天候の原因を十澄は知っていた。ここ数日は妖怪の客足も遠退いて睡蓮邸には住民しかいない状態が続いている。つまりこの天気の原因は睡蓮邸の住民にあるのだ。
 ちらりと十澄は視線を今いる部屋の中央に移す。
 睡蓮邸の最南端、蓮華の間と呼ばれる紫を基調にした和風の部屋の中央には、睡蓮邸では滅多に見かけられない寝具が敷かれている。それに横たわっているのは、睡蓮邸の主・紅姫その人だ。
 艶やかな長い黒髪を敷き蒲団の上に広げ、寝着に包まれたあどけない顔は青白く、長いまつげは下りたまま上がらない。元の肌の白さや華奢な身体つきも手伝って、眠る紅姫の横顔は触れれば消えてしまいそうなほど儚く見えた。
 降り続く小雨の原因、それは紅姫の意識不明という状況にあった。

「心配するな、なんて言われてもねぇ」

 無理に決まっている、と十澄はつぶやく。
 彼女の意識不明には明確な理由がある。十澄も彼女が寝込む前に紅姫から直接理由を聞かされていた。
 紅姫は妖怪に唯一の安らかな眠りを与える墓守の一人だ。常に睡蓮邸を訪れる、永劫に続く長い生に絶望した妖怪たちを受け入れる睡蓮邸の主。妖怪以上に果てしない月日を生き続けなければならない墓守たちは、百年に一度、その魂を癒すために深い眠りに就く。
 その百年目を今、紅姫は迎えているのだ。
 墓守はただの人間には理解が及ばないほど永い歳月を生きていく。永劫の寿命を持つ妖怪でさえも永い時の流れに死という安寧を求め、墓守の下を訪れるのだ。彼らは自ら死を望めば終わりを迎えられるが、墓守に終わりはない。死という“救い”を持たない墓守たちは、長い時に魂と精神が摩耗し狂ってしまわないように深い眠りに就く。
 百年周期の眠りが訪れた、長くても五日、最短で三日も経てば目覚めるだろうと紅姫は十澄に説明し、深い眠りに就いた。それ以来、紅姫は青白い寝顔を晒している。
 紅姫が眠ってどれほど時間が過ぎたのか曖昧だが、十澄はそれから一時たりとも彼女の傍を離れていなかった。

――恐ろしいのだ。もしかしたら、彼女はもう二度と目覚めないのではないか、と要らぬ邪推が脳裏をよぎって仕方がない。

 その懸念を睡蓮邸の住民も、紅姫自身も否定した。他の墓守も、これまでの永い時の中でも、眠りから墓守が戻らなかった例はない。
 そうと分かっていても。

「……これを見てしまったら、信じられないよ」

 苦々しい表情で十澄は立ち上がり、眠りに就く紅姫の傍に寄って腰を降ろす。
 十澄はこれまで紅姫が眠っているところを数度しか見たことがない。睡蓮邸において、定期的な睡眠を必要とするのは人間の十澄だけだ。墓守の紅姫も、妖怪や精霊と言った人外の存在たちも生きていくために睡眠を必要としない。眠ることはできるが、それぞれの好みの範疇の問題だ。
 紅姫は十澄の睡眠時間に本当に時折、面白半分で付き合って眠ることがある。十澄の知る紅姫の寝顔とはその時のもので、少なくとも今回のように青白い、病的な寝顔ではなかった。
 今の彼女の、触れれば壊れてしまいそうな危うい雰囲気が、十澄に一抹の不安を与えている。

「早く、起きてよ。十純」

 この眠りは墓守の紅姫にとって生きていくために必要不可欠な要素だ。
 しかしそれを解っていてなお、十澄は切実にそう願ってやまない。十澄は人間の世界と縁を切って選び取った現在の生活が、ほんの偶然と小さな奇跡の上で成り立ったものだと思っている。それは何でもない弾みで壊れてしまいそうで、時折恐ろしくなる。
 だから今この時が、不安にじわりじわりと侵食されて恐ろしい。

「十純」

 吐息に紛れるほど小さく囁いて、十澄は手を伸ばす。敷き蒲団の上に広がる、艶を落とさない紅姫の黒髪を一房、拾い上げる。
 手の平からさらさらと黒髪を落ちるのをじっと見つめ、十澄は自嘲気味に笑った。

「ぼくは弱くなったのかな」

 たったこれだけのことで、これほど動揺する自分が十澄は信じられなかった。
 生まれは裕福な家であったが、家庭環境には恵まれていたとは決して言えない。体面的な問題で顕著な暴力こそ振るわれなかったが、誹謗中傷は日常茶飯事、どこに行っても好奇心や不信の混じった目で見られ、心の休まる場所は幼い頃から通い詰めた睡蓮邸にしかなかった。
 それでも十澄は敵にしか見えない周囲の人間たちに害されないよう、くじけないよう、それなりに精神を強固に頑なにする術を得ていたはずだ。些細な不安や傷ごときで歩みを止めてしまう不安定さは削ぎ棄てていた。

(昔なら、こんなことはなかった)

 十年以上前、紅姫と永久に会えなくなるかもしれないという時でさえ、自暴自棄な面もあったとは言え、今ほどあからさまに不安定な気分にはならなかった。
 本当に大切な居場所を見つけ、そこに居座ることを決めて十年と少し。睡蓮邸の特殊さゆえに苦労もあったし、時には命の危機すら感じたこともある。

(……でもここは、本当に居心地が良すぎたんだ)

 十澄はもう抜け出せないほど、どっぷりとその沼にはまり込んでしまった。いまさら、手放せないのだ。
 あまりの自分のふがいなさに、十澄は再度深く短いため息を吐く。
 その時、蓮華の間に備え付けられたふすまの一つが、すっと横に開いた。