紅姫と出会ったのは、有名な祭りが開かれた日の夜だった。
 普段は名家の嫡男として厳しく学問や作法を叩きこまれるが、その祭りの夜は両親も寛容になって子どもらが遊ぶことを許していた。
 もっと正確に言うなら、遊ぶという名目の下に両親は十澄を放置した。当時四歳だった恭二郎を連れて親子三人で祭りに出かけ、好きにしろと言って十澄を家に置いて行ったのだ。
 悲しかった。弟が妬ましかった。両親を恨んでいた。
 子ども心に黒々とした感情を抱え込んで、十澄は一人でふらふらと祭りの中に紛れ込んで行った。
 祭りで人が賑わっていたとしても、夜に六歳の子どもが一人で出歩くのは危険な行為だ。どこで怪我をするか、攫われるか、襲われるか、分かったものではない。だが両親はおそらくそれでもいいと思っていたのだろう。十澄が攫われて行方不明になれば、怪我をして一生傷物になれば、跡取りの座は十澄から恭二郎へと移行するから。
 当時はそんな両親の考えまで頭になかったが、疎まれて憎まれているのは分かっていた。むしゃくしゃした気分で楽になれる場所を探しても、物珍しい祭りの光景さえ十澄の心を癒してはくれない。一銭も持っていないため、食べ物を買うこともできない。実家に戻っても夕食は準備されていないのは分かっていた。
 人の目を逸れた暗がりで祭りの輝きをぼんやりと見つめ、空腹と心痛を抱えて道端にうずくまっていた。

「おや……、お主は何故そんな顔をしておる?」

 その声に顔を上げて十澄は硬直した。
 赤い唐傘を差し、猩々緋色の艶やかな衣装を纏った年上の少女が十澄を見下ろしていた。祭りのかがり火に照らされる姿は幼さの中に妖艶な、大人の色香を含んでいる。
 名家の生まれの十澄も、彼女ほど豪華な小袖を着る者は知らない。だがそれは彼女にはよく似合っており、彼女の魅力を引き立てている。

「綺麗……」
「ほう?」

 気が付けば、十澄は初対面の少女を見上げてつぶやいていた。
十澄の母も美しい人であったが彼女には到底及ばない。彼女は容姿も美しいが、何より身に纏う静かな雰囲気が美しいと思ったのだ。
 唐突な褒め言葉に目を細めた彼女は、すっと手を差し出して十澄を立たせた。

「お主、神聖な祭りの夜に暗い顔をしておるかと思えば、良い顔をするではないか」
「うん?」

 楽しげな微笑に見惚れながら、十澄は首を傾げる。
 あとから聞いた話では、この世の終わりのような顔をしていた子どもが突然にきらきらと顔を輝かせたからそう言ったらしい。
 言葉の意味を聞き返す前に少女は十澄の手を引いて歩き出す。

「ど、どこ行くの?」
「わらわの屋敷へ。……腹が減っておるのじゃろう? そこらで買っても良いが、わらわは目立つからのう」

 戸惑って周囲に視線を巡らせ、十澄は驚く。誰も十澄と少女を見ていなかった。視線を感じない上に、誰とも目が合わないのだ。
 少女の格好は祭りの中にあってもよく目立つ。その手に引かれる十澄は特異な容姿でいつも誰かの視線を掻き集める。そんな二人組の子どもが誰の目にも留まらないのはおかしい。

「どうして?」

 疑問に目を白黒させる十澄に、少女はあっさりと仕掛けを暴露した。

「わらわの姿は人間には視えぬ。わらわが声を掛けぬ限り、ではあるが」
「ええ? そんなことってあるの?」
「世の中には星の数ほど不思議はあるのじゃぞ?」

 涼やかな声で諭されると常識的な反論も無意味に思えて、十澄はよく分からないながらに頷いて受け入れた。
 それを少女が楽しそうに笑って見ていたことに、十澄は最後まで気付かなかった。十澄に声を掛けたのも、食事を与えようとしたことも、少女の気まぐれと良心による行為だったが、この時初めて彼女は十澄に深い興味を抱いたのだ。

「この良き日に何を悩んでいた?」
「……父上と母上と、ぼくも一緒に祭りに行きたかったんだ」
「迷子ではなかったのか」
「父上たちは恭二郎……弟だけ連れて、祭りに行ったから。ぼくは一人で来たよ」
「一人で? 何じゃ、親に叱られたのか? 一緒に来なかったのは、何かの罰かの?」

 違うよ、と十澄は歯噛みして首を横に振る。
 祭りに出掛ける前に声を掛けて来た母の姿を思い浮かべる。冷ややかな目で、侮蔑の混じった目で、好きにしろと言われた。嬉しそうに笑って両親に手を繋がれて出かける弟を、十澄は妬みと羨望の混じった目で見送った。
 今回に限らず、弟の持っている居場所が自分も欲しかった。

「母上と父上はぼくがいらないから連れて行かなかったんだ。ぼくは他の子と違うから、おかしいから捨てて行った」

 十澄は日頃の両親の言動を思い出して、事実だけを口にした。そこには無意識のうちに十澄の受けた辛苦や悲哀がこもっていただろう。それからぽつりぽつりと両親や実家の事情を話した。
 少女は黙って十澄の話に耳を傾けていた。

「よう、頑張っておるわ」

 思いの丈を語り尽くし涙で顔をぐしゃぐしゃにした十澄を、少女は優しく頭を撫でて慰めてくれた。
 話をするうちに二人の足は止まり、手近な芝生の上で座り込んでいた。
 いつの間にか、十澄はされるがまま少女に抱き締められて、彼女の綺麗な着物を涙で汚して、すがりついて声が枯れるまで泣いて感情をぶちまけていた。

「他の者が何と言うのか、わらわには分からぬが……。お主の栗色の髪は綺麗だとわらわは思うぞ? 大陸の者はもっと派手な色合いをしておるし、お主の髪はお主にしか出せない希少な価値のある髪じゃ」

 そう言って、本当に綺麗なものを見るように少女は目を細める。
 十澄はこの時初めて、自分の髪が栗色で良かったと感じていた。純粋な金髪でも、深い漆黒でもない中途半端な色合いが、ずっと十澄は大嫌いだった。その中途半端な色が混血である自分の存在を暗示しているように思えていたのだ。
 ぐずぐずと酷い顔でなかなか落ち着きを取り戻さない十澄をあやして、少女は気が紛れるように他愛無い話をした。それは真っ黒な毛玉や一つ目の鬼などが出てくる不思議な物語で、時に物悲しくも可笑しな話だった。
 当初は作り話だと思っていたそれが、少女が実際に体験した話だと悟るのは、それから少し後の話である。

「……ねえ、お姉さんのお名前は?」
「……お姉さんと呼ばれる歳ではないのじゃが」

 ふと相手の名前を知らないことに気が付いて尋ねると、少女は苦々しく笑う。少し悩む素振りを見せたので根気強く待った。
 少女は声を潜めて十澄の耳に顔を寄せると言った。

「わらわの名は十純じゃ。他の者は紅姫と呼ぶが……お主はわらわの友人、そう呼ぶ必要はあるまい」
「……十純?」
「そうじゃ」

 さりげなく友人と言われたことも嬉しかったが、それ以上の偶然に十澄は衝撃を受けて目を見開いた。
 口をぱくぱくさせる十澄に、少女――紅姫は心配そうに眉を寄せる。

「どうした?」
「ぼ、ぼくも“とずみ”なんだ、苗字が」
「苗字が? ではお主の名は?」
「十澄、景一郎」
「ほう……、凄まじい偶然じゃな」

 感嘆の吐息を洩らして紅姫は口角を上げる。
 あとから分かったことだが、“紅姫”とは妖怪の墓を守る墓守に対する尊称らしい。妖怪は死という安息を守る墓守を敬う義務があるが、人間の十澄には関係ない。紅姫は友人として他の誰も呼べない自らの名を教えたのだ。
 その時は、紅姫の唯一の真名を呼ぶことがどれほど大事な意味を持つことか、十澄は理解できていなかった。

「同じ名では紛らわしいゆえ、わらわはお主を景と呼ぼう。景一郎、というのは少し響きが長い」
「本当!?」

 十澄にとって紅姫は初めての友人で、初めて十澄を否定せずに受け入れてくれた者だった。親しげにあだ名を付けられたことも、友人ができたことも嬉しくて、十澄の頭からは完全に両親の存在は抜け落ちていた。
 そして、この日は十澄にとって初めての連続になる。

「ねえ、十純お姉さん」
「お姉さんは止めよ。十純、だけで良い」
「うん。じゃあ、十純。……ここどこ?」

 泣いたことも忘れてにこにこし始めた十澄を、紅姫は約束通りに睡蓮邸へ連れ帰った。
 見知った道を歩き、竹藪の中に分け入って視界が揺らいだ次の瞬間、十澄は見知らぬ土地にいた。背後に深い竹林、目の前には端の見えない高い塀を持つ日本風の屋敷が威圧感を放っている。
 内裏よりも広いように思える屋敷を前にして、十澄は完全に呆ける。

「わらわの屋敷じゃ!」
「……おっきいねえ」

 大人びた雰囲気を一転して、子どものように胸を張った紅姫を横目に、十澄は口を半開きにして周囲を見渡す。立派なものばかりで、賛美の言葉すら浮かんでこない。
 それから十澄は紅姫に手を引かれて睡蓮邸に招かれ、鬼丸や風切姫に紹介されて目を丸くし、出された食事の美味しさにまた泣いた。
 怒涛のように時間は過ぎ、西の空が薄ぼんやりと明るくなり始めた暁闇に、紅姫たちに送られて睡蓮邸を出た。
 また来てもいいか、と問えば笑顔で紅姫に頷かれる。

「いつでも来るがよい。ここは穏やかな屋敷ではないが、お主一人くらいわらわが守ってやろう。次に会いに来るのを待っておるぞ」