その日の帰り道、清水くんは学園祭の話題に触れようとしなかった。
いつもどうにかして私の関心を学園祭に向けようと必死で、その姿にはさすがの私も無関心でいることが申し訳なくなっていたのだが、もしかすると私の無関心が清水くんに迷惑をかけているのだろうか。
そう思い至った私は激しい自己嫌悪に陥った。
考えてみれば清水くんは、いつも私のために心を砕いてくれていたのだ。
たぶん他の女子と付き合っていたなら必要のない心配や苦労をかけてしまっている。
桜庭さんや西さんは、私にそのことを伝えたかったのではないか、と思えた。
近所にできた小さな洋菓子店が行列ができるほどの人気だ、と一方的に話していた清水くんは、私の表情が暗くなったことに気がついたらしく、「ん?」と問いかけてきた。
「いや、あの、今日はいろいろあったんで……」
私はできるだけ重くならないように気をつけて言った。
「そういう日もあるよ。それにああいうタイプの人間は、舞を敵とみなしたら、ぎゃふんと言わせるまで攻撃したいという習性があるんだ」
私は思わず「ぎゃふん」に失笑してしまったが、清水くんの言葉には並々ならぬ説得力が感じられた。
「ずいぶん研究されているみたいで、詳しいんですね」
言ってから、少し嫌味っぽかったかな、と思う。でも清水くんはフッと笑っただけで、どこか遠くを見つめていた。
それから思い出したように言う。
「つらいなら、つらいって言って。じゃないと俺は、舞をもっとつらい目にあわせてしまうかもしれない」
隣を歩く人を見上げると、彼も私をじっと見つめていた。
急に心細くなる。
彼の考えていることがわからない。
「それって、どういう意味ですか?」
清水くんは気まずそうに目をそらした。嫌な予感が私の胸の中を暴れまわるけれども、私にはどうすることもできない。
「アイツらは舞をへこませるのが目的なんだ。俺の彼女というだけで舞が気に入らない。だけどアイツらにとって俺自体はもうどうでもいいんだ。舞に嫌がらせをし、舞をおとしめて、ほんの少しの優越感に浸ることだけが、アイツらのちっぽけなプライドを取り戻す手段なんだよ」
「つまり、私が桜庭さんや西さんのプライドを傷つけた、ということですか?」
「たぶん向こうはそう思っているはず」
なるほど、と思った。よくある話だ。ひいきをする教師よりも、ひいきされる生徒が憎まれる。そして憎む側は己の憎しみがどこから来たものかを知らずにいるのだ。
「それで、もし私が『つらい。もう耐えられない』と言ったら、どうするつもりですか? ……別れる、とか?」
私は先回りをした。清水くんからそれを切り出されるのが怖い。怖くてつらくて死んでしまいそうだ。
考えただけでもそう思うのだから、もし本当にそういう瞬間が訪れたら、私はどうなってしまうのだろう。
心がすり減るような時間が過ぎていく。
やがて清水くんは、慎重に言葉を選びながら言った。
「それはアイツらがもっとも望んでいる結末だろうね」
確かにそうだ。しかしそれは私の質問への答えになっていない。
「私は……つらいです」
隣を歩いている人が立ち止まった。
私も立ち止まって、もう一度大きく息を吸う。
「わけのわからない敵意を向けられるのも、陰でこそこそ悪口を言われるのも、本当はものすごくつらいし、耐えられないって思います。でも……」
突然、喉の奥がきゅっと狭まり、次の言葉を発することができなくなった。
うっ、というよりは、ひっ、としゃっくりのような音が出て、次の瞬間、堰を切ったように目から涙があふれ出す。
「舞!?」
清水くんが慌てて私の顔を覗き込むようにした。見られたくない私は、あからさまに顔をそむける。
「別れるとか、考えただけでもこんなにつらいのに、……ど、どうしろって言うんですか!?」
涙声でそう言いながら、ずいぶんめちゃくちゃなことを言っているな、と思った。恥も外聞もなく、こんなことが言えるなんて、まるで恋する乙女みたいだ。
「舞……」
その呼びかけと同時に、清水くんの手が私の頭を抱えるようにして引き寄せた。
彼は片手で自転車を支え、片手で私の頭と肩を抱く。
気がつけば私は清水くんの半身にぴったりとくっついていた。彼の腕の中はいつもいい匂いがする。気が遠くなりそうだ。
しかしこんなときにこんなことを思うのも変な話だが、眼鏡に涙が飛び散って視界が悪い。お願いだから、誰か眼鏡を拭いてください。
仕方なく、私は眼鏡を外した。
頭上でクスッと笑う声がする。
ん? と思うのが早かったか――。
それとも彼の指が私の顎にかかるのが早かったか――。
唇に、彼の唇が触れた。
柔らかく温かい感触を、必死の想いで受け止める。
離れたかと思うと、今度はついばむようにされた。私はどうしたらいいのかわからず、ただ茫然としながらキスの嵐に翻弄される。
なんて心地よい感触なんだろう。
私たちはちょうど住宅地を抜けたところにある寺院の裏手にいた。街灯からも少し離れていて、辺りは真っ暗だった。
ひとりで帰るなら小走りで通り過ぎる場所だ。
でも今は、このまましばらく清水くんとふたりきりでいたいから、誰も通りかからなければいい、と思う。
そう考える間も、彼の優しいキスが私の心を温かいものでいっぱいにしてくれていた。
いつもどうにかして私の関心を学園祭に向けようと必死で、その姿にはさすがの私も無関心でいることが申し訳なくなっていたのだが、もしかすると私の無関心が清水くんに迷惑をかけているのだろうか。
そう思い至った私は激しい自己嫌悪に陥った。
考えてみれば清水くんは、いつも私のために心を砕いてくれていたのだ。
たぶん他の女子と付き合っていたなら必要のない心配や苦労をかけてしまっている。
桜庭さんや西さんは、私にそのことを伝えたかったのではないか、と思えた。
近所にできた小さな洋菓子店が行列ができるほどの人気だ、と一方的に話していた清水くんは、私の表情が暗くなったことに気がついたらしく、「ん?」と問いかけてきた。
「いや、あの、今日はいろいろあったんで……」
私はできるだけ重くならないように気をつけて言った。
「そういう日もあるよ。それにああいうタイプの人間は、舞を敵とみなしたら、ぎゃふんと言わせるまで攻撃したいという習性があるんだ」
私は思わず「ぎゃふん」に失笑してしまったが、清水くんの言葉には並々ならぬ説得力が感じられた。
「ずいぶん研究されているみたいで、詳しいんですね」
言ってから、少し嫌味っぽかったかな、と思う。でも清水くんはフッと笑っただけで、どこか遠くを見つめていた。
それから思い出したように言う。
「つらいなら、つらいって言って。じゃないと俺は、舞をもっとつらい目にあわせてしまうかもしれない」
隣を歩く人を見上げると、彼も私をじっと見つめていた。
急に心細くなる。
彼の考えていることがわからない。
「それって、どういう意味ですか?」
清水くんは気まずそうに目をそらした。嫌な予感が私の胸の中を暴れまわるけれども、私にはどうすることもできない。
「アイツらは舞をへこませるのが目的なんだ。俺の彼女というだけで舞が気に入らない。だけどアイツらにとって俺自体はもうどうでもいいんだ。舞に嫌がらせをし、舞をおとしめて、ほんの少しの優越感に浸ることだけが、アイツらのちっぽけなプライドを取り戻す手段なんだよ」
「つまり、私が桜庭さんや西さんのプライドを傷つけた、ということですか?」
「たぶん向こうはそう思っているはず」
なるほど、と思った。よくある話だ。ひいきをする教師よりも、ひいきされる生徒が憎まれる。そして憎む側は己の憎しみがどこから来たものかを知らずにいるのだ。
「それで、もし私が『つらい。もう耐えられない』と言ったら、どうするつもりですか? ……別れる、とか?」
私は先回りをした。清水くんからそれを切り出されるのが怖い。怖くてつらくて死んでしまいそうだ。
考えただけでもそう思うのだから、もし本当にそういう瞬間が訪れたら、私はどうなってしまうのだろう。
心がすり減るような時間が過ぎていく。
やがて清水くんは、慎重に言葉を選びながら言った。
「それはアイツらがもっとも望んでいる結末だろうね」
確かにそうだ。しかしそれは私の質問への答えになっていない。
「私は……つらいです」
隣を歩いている人が立ち止まった。
私も立ち止まって、もう一度大きく息を吸う。
「わけのわからない敵意を向けられるのも、陰でこそこそ悪口を言われるのも、本当はものすごくつらいし、耐えられないって思います。でも……」
突然、喉の奥がきゅっと狭まり、次の言葉を発することができなくなった。
うっ、というよりは、ひっ、としゃっくりのような音が出て、次の瞬間、堰を切ったように目から涙があふれ出す。
「舞!?」
清水くんが慌てて私の顔を覗き込むようにした。見られたくない私は、あからさまに顔をそむける。
「別れるとか、考えただけでもこんなにつらいのに、……ど、どうしろって言うんですか!?」
涙声でそう言いながら、ずいぶんめちゃくちゃなことを言っているな、と思った。恥も外聞もなく、こんなことが言えるなんて、まるで恋する乙女みたいだ。
「舞……」
その呼びかけと同時に、清水くんの手が私の頭を抱えるようにして引き寄せた。
彼は片手で自転車を支え、片手で私の頭と肩を抱く。
気がつけば私は清水くんの半身にぴったりとくっついていた。彼の腕の中はいつもいい匂いがする。気が遠くなりそうだ。
しかしこんなときにこんなことを思うのも変な話だが、眼鏡に涙が飛び散って視界が悪い。お願いだから、誰か眼鏡を拭いてください。
仕方なく、私は眼鏡を外した。
頭上でクスッと笑う声がする。
ん? と思うのが早かったか――。
それとも彼の指が私の顎にかかるのが早かったか――。
唇に、彼の唇が触れた。
柔らかく温かい感触を、必死の想いで受け止める。
離れたかと思うと、今度はついばむようにされた。私はどうしたらいいのかわからず、ただ茫然としながらキスの嵐に翻弄される。
なんて心地よい感触なんだろう。
私たちはちょうど住宅地を抜けたところにある寺院の裏手にいた。街灯からも少し離れていて、辺りは真っ暗だった。
ひとりで帰るなら小走りで通り過ぎる場所だ。
でも今は、このまましばらく清水くんとふたりきりでいたいから、誰も通りかからなければいい、と思う。
そう考える間も、彼の優しいキスが私の心を温かいものでいっぱいにしてくれていた。