楠木入道の裁判の判決は鎌倉でも風説の種となり、
──賄賂も取らぬ廉潔なお武家さまが、まだおわすとは。
という驚きが、辻々で回った。
今では考えられない話だが、それほど裁判に賄賂は当然の風潮でもあったのである。
が。
同時に奇妙な噂も広まりつつあって、
「なにゆえ安達どのは辰砂なぞ買われたのか」
といった事実は、あらゆる憶測を呼んだ。
辰砂は現在の硫化水銀で、これを焼いて丹という絵の具の原料を取り出す。
いわば朱である。
その朱色の顔料の原料を大量に買ったので、朱塗りの柱で神社を建立するという話もあったが、
「どなたか一服盛るために買ったのでは」
といった黒い噂まで流れた。
頼綱は噂を聞いたとき、
「むしろ神社を建立してもらいたい」
といった。
神社の建立はいわば名家のステータスであり、同時に金銭面で力を削ぐ効能もある。
しかし。
大仏宣時の見立ては違うもので、
「この頃いやに執権どののお顔がすぐれぬのと、何も関わりがなければ良いのだが」
といい、暗に安達泰盛が少しずつ水銀を時宗に盛っているのでは…という、疑いの眼差しとも取れる発言が出た。
確かにこの頃の時宗は不例である、として評定の席に出ないこともある。
が。
行藤の見立てはさらに違った。
「あれはおそらく脚気衝心であろう」
脚気衝心。
これは「医心方」という書物にある。
脚気が悪化すると、ときに心臓が発作を起こすことがある。
(辰砂の毒なら血を吐くはずだ)
時宗に吐血がないことを聞いて、辰砂の中毒に吐血があることを読み知っている行藤は、そこを指摘したのである。
ただ。
幕府という場所は、正論が通らない場所であることも、行藤や頼綱はすでに気づいており、
「何事もなければ、それに超したことはない」
と、不安げに気にかける藤子に行藤は説いて聞かせたのであった。
疑惑の噂も消えかけた弘安七年正月、珍しく行藤あてに書状が届いた。
見ると差出人は菊池武房である。
(菊池どのか)
懐かしいと感慨に浸る間はなく、手紙の中身は幕府の沙汰が何もない、といった不満が書き列ねてあるものであった。
「はて面妖な」
恩賞や論功は、鎮西探題の職務のはずである。
どういうことなのか確証を取るべく執権御所へ向かい、
「このような書状が参りましたが、鎮西探題は何をされておられまする」
と、いささか糾弾気味に問うてみた。
すると、
「田畑がないのだ」
と同席の連署の極楽寺業時が答えた。
「そのために新しき田畑を切り開かれるべし、と進言したはずにございます」
行藤は食い下がった。
かつて行藤が六波羅にいた当時、合戦に備え建白を出すよう全国の武士が求められた折、建白書として提出したことがある。
新田開発の建議は、ときの連署塩田義政の目に留まり、幕府でも会議にかけられたことがあった。
それを行藤は指したらしい。
しかし。
極楽寺業時の反応は芳しくない。
「それは無理がある」
「では得宗家が身を削ってでも、行賞はいたすべきかと存じまする」
それが御恩と奉公ではないのか、と行藤は正論をぶつけた。
「それはあくまで田畑があるときのみであろう」
ない袖は振れぬ、と極楽寺業時はにべもなくいった。
「では連署どの、これで万が一菊池どのが幕府に叛旗を翻したらば、いかがなされるおつもりか!」
そうなったら非は幕府にあることになる、と行藤はさらに食い下がった。
珍しい言動に御所はざわつき始めていた。
行藤にすれば、この場で食い下がることが菊池武房に対する恩返しのつもりであり、それが半ば行藤なりの、筋の立てかたでもある。
が。
「判官どの、そう責めずにお察しくだされ」
珍しく、上段にいた時宗が折れて手をついた。
「どうか、お察しくだされ」
天下の執権に頭を下げられては、行藤もこれ以上の抗議は無理であったに違いない。
「…では菊池どのには今日のことをありのまま、したためておきまする」
行藤は下がった。
翌日、御所のやりとりそのままの返信を、菊池武房へ宛てて行藤は差し立てている。
残念ながらこの書簡を読んだ、菊池武房の反応は資料にない。
しかし。
これが意外な形であらわれてくることになるのを行藤が知るのは、のちのことである。