菊池武房の帰国を見送った弘安四年師走、行藤の二階堂隊は平頼綱らと共に鎌倉へ下るべく、六波羅を出発、鎌倉へ到達したのは押し迫った月末である。

永福寺下の屋敷へ戻ると、

「おかえりなさりませ」

と行藤は久々に、懐かしい藤子と四人の子らの出迎えを受けた。



弘安五年が、明けた。

鎌倉では正月元日から三日までの連日、七日、十五日に歴代の執権が将軍を招き盛宴を張る「椀飯(おうはん)の儀」という饗応がある。

ちなみにこの行事は椀飯振舞ともいい、後に「大盤振る舞い」という言葉の語源となる。

が、それは置く。

この椀飯の儀は鎌倉では誰が行うかが、権力の象徴として目安にされていた。

現に北条時頼など、自身が大病を患って執権を譲ったあとも椀飯の儀だけは北条長時に譲らず、死ぬまで自らが続けたという例がある。

時頼以後は政村、時宗と歴代執権が主宰となり、この儀式は続けられてきている。

が。

行藤が参加するのは判官に補任され六波羅へ赴く前以来で、およそ二十年ぶりである。

ついでながら当時はまだ弘長三年で主宰は北条時頼であった。

で。

行藤が参列したのは七日である。

というのも。

北条時宗から「長年の異国合戦(当時まだ元寇という単語はない)の儀、功労あるもねぎらはるゝの儀これなく、七日の間休息を与ふものなり」という休暇を、半ば無理くりに取らされたからであった。

すでに頼綱は内管領となり祝宴の指図に回っている。

しばらくして宴もたけなわとなった頃、北条時宗が上段からいきなり行藤の膳の前まで下りて、

「判官どの、まず一献」

と酒をついだ。

行藤は飲み干した。

代わりに行藤がついで、

「執権どの、返盃にございまする」

時宗も間を空けずにクイッと飲んだ。

「判官どの、折り入っての話がある」

「何にございましょう」

次の執権のことだが、と時宗はいい、

「まだ貞時は若い。そこで貞時がより良き執権になるために、目代を誰かに任せようと思うのだが」

適した者は誰か、というのである。

あまりの驚きで、行藤は酒が一気に醒めてしまった。

(ご父君のことがあらせられるのであろうが)

何で、というのが率直な感想であろう。

「判官どのなら依怙も贔屓もなく申してくれようゆえ、こうして訊ねておる」

「はて、いかがしたものか」

その儀はひらに、と行藤は手をついたが、

「誰かおりませぬか」

時宗は退かない。

遂に窮した。

「…さすれば大仏の宣時どのなぞ、いかがでございましょう」

大仏宣時。

行藤の八つ上の大仏北条家の人物で、和歌の名手でもある。

「今は亡き時頼公とは、共に味噌を肴に酒を酌み交わしたほど、親しき間柄にございます」

宣時どのであればお役目に相応しいのでは、と行藤は答えた。

「…そうか!」

時宗は膝を打った。

「時村どのあたりを鎌倉に呼び戻さねばならぬと考えておったが、宣時どのという道があったか…」

行藤はやれやれ、といった顔つきになり、

「それでもご案じならば、連署を増やせばよろしゅうございましょう」

何も連署を一人にせよ、と式目では規定してはいないのである。

「ではその折には判官どのに連署をお頼みいたす」

「また執権どのも、酒宴といえお戯れを」

笑いながら行藤は、盃を受けた。



ところで。

引付衆に行藤は任じられ、いわゆる裁判の職務を任されることとなったのは、弘安五年の春である。

「引付衆」

というのは鎌倉幕府に持ち込まれるあらゆる訴訟を、迅速に裁断する役職名である。

行藤の出羽守二階堂家では三代続けての就任であったが、北条一門以外の起用は珍しく、

──何か裏で細工でもしたのではあるまいか。

と鎌倉では噂が立つほど、異例の抜擢でもあった。

が。

行藤のいわゆるマイペースぶりはここでも変わりなく、

「裏で細工をするほど銭は持ち合わせておらぬ」

と返し、その場にいた極楽寺業時を唖然とさせたのであった。