博多での蒙古軍との合戦を行藤が聞いたのは、六波羅を進発し、船に移るべく伊勢の白子浦で船の風待ちをしていたときであった。

「探題どのより、急ぎ都へ戻られよとの仰せにございます」

早馬の報せを受けた行藤はしばし熟考していたが、

「…都へ戻るぞ」

とのみいい、来た道を都へ結局は帰ることとなったのである。



博多では。

少弐経資と弟の景資の間に戦後の後始末で、問題が生じていた。

景資が一番手柄とした竹崎季長の武勲を、

「これは手柄ではない」

と兄の経資が、取り消したのである。

経資の言い分は、

「菊池隊と合流する条件で竹崎隊に進発を許可したにもかかわらず、菊池隊に加わらず、勝手に麁原まで深追いした」

これは抜け駆けである…と経資はいうのである。

景資は竹崎隊の一番手柄の証人として白石通泰と三井資長を呼び出し、少弐経資に季長の武勲であることを愁訴したのだが、

「抜け駆けは、鎌倉に申し上げぬことになっておる」

「しかし景資どのの引付書には竹崎どのは一番手柄となっております」

「認められぬ、と鎮西奉行の大友頼泰どのも仰せである。諦められよ」

というばかりで、もはや埒の明かぬ状態となっていたのである。



これを聞いて季長を不憫に感じたのは長老の井芹秀重である。

「太宰少弐ともあろうお方が、何を世迷いごとを仰せか!」

井芹秀重は吐き捨てた。

当の季長は無駄働きにされてしまったのがこたえたのか、

「神も仏もないのう」

といい悄気返ってしまっている。

おまけに路銀の借金のカタに馬や鎧まで差し押さえられてしまって、どうしようもない。

「訴えようにも、どうにもならぬ」

季長は井芹秀重に、

「一思いに首をはねてくだされ」

と懇願し、さすがにあわれと思ったのか、

「これで少しは口をしのがれよ」

と懐から井芹秀重は幾ばくかの銭を渡した。

むろんこの長老とて決して裕福ではないが、師走だというのに麻の夏物の帷子で過ごしている季長が、あまりにもみすぼらしかったのである。

数日、経った。

二階堂隊が薩摩への帰路、井芹秀重のもとを挨拶に訪れた。

「確か二階堂家には、京の六波羅に一門のお方がおられると聞き申したが」

とこの老人は、話を向けてみた。

「六波羅探題の後見の目代に、一門の判官行藤どのがおられます」

隊を率いる地頭の今村藤九郎はこたえた。

「どのようなお方かの」

聞くと、変わり者だが朝廷からの信頼もあつく、公卿との付き合いもひろい、というのである。

井芹秀重には、何か閃いたものがあったらしい。

「竹崎どのに使いを出せ」

家来を呼びにやった。

このころ…。

季長は鎌倉へ訴え出ることを決めた。

「正気か?」

野垂れ死にが目に見えておりますぞ、と見舞いに来た白石通泰からは止められたのだが、

「ここまでくれば恩賞だの、褒美だのの話ではない。一番手柄がこの季長であることを認めていただきたいのだ」

といい、姉の嫁ぎ先の三井資長から路銀を借り、ひとまず京の六波羅を目指すことにしたのであった。



その京では。

帰洛した行藤が朝廷に呼び出され、議堂で居並ぶ公卿たちから質問ぜめをうけていた。

「蒙古軍は都へ参るのか」

「すでに博多を引き揚げた由、聞いております」

「なにゆえ執権どのは兵を出さなんだか」

「九州の兵だけで勝てると読まれたものかと思われます」

「朝廷には報せがないではないか」

「六波羅の赤橋どのよりご奏上があったと聞いております」

次々と片っ端から浴びせられる問いに、行藤はよどみなく返してゆく。

次第に、公卿たちは口数が減っていき、

「もうよい、下がれ」

と笏で払う手振りをするのが精一杯であった。

これを聞いた、すでに出家し融覚と名乗っていた為家卿は、

「なんとも品のない、穢らわしいいたぶりようやないか」

と制止できなかった一条家経を叱責した。



年が明けた。

四月二十五日に改元があり、建治元年となっている。

改元からほどない五月一日、為家卿が亡くなった。

さて為家卿が遺した土地の問題はやがて鎌倉で裁判となり、それらの話は「十六夜日記」に詳しいのだが、それはこの本題と関わりがない。

ところで。

夏を迎えた京の町は、ようやく平和を取り戻しつつあった。

行藤が屋敷に戻ると、

「殿に客人にございます」

と藤子がいった。

「客人?」

「それが、九州のお方のようで…」

聞けば辻に行き倒れの侍があり、通報を受けた六波羅の番役が尋問したところ、二階堂家へ向かうところであったというのである。

(はて)

思い当たるふしはない。

ともあれ客殿へ招じ入れると、汚れた直垂に穴の開いた折烏帽子を付けた武士がある。

「…初めてお目にかかります。それがしは肥後の国人、竹崎五郎兵衛尉季長にございます」

「二階堂判官行藤である。お手を上げられよ」

見ると初めて会う顔である。

「お手前は肥後と仰せられた。率爾ながら、名越家ゆかりのお方ではありますまいか」

確か熙子の婚家の名越家が肥後の守護であったことを、思い出したのである。

「さにあらず」

「では、なぜ…?」

「肥後で噂をうかがいましてございます」

すると季長は、合戦の経過から戦功、それを少弐家に取り消された経緯をぶちまけ、

「何とぞ二階堂判官どののお力を持ちまして、手柄をお認めいただきたく、願いあげ奉りまする」

とあたかも平蜘蛛のように平伏した。

「…竹崎どの、お手を上げられよ」

内心、

(厄介な者が来たものよ)

と行藤は、困り果ててしまった。



「竹崎どの」

行藤は季長に湯漬けをすすめた。

「少弐どのが決められた以上、この行藤には沙汰を変えることができぬ」

「では、どなたが変えられるのでございますか?」

季長は食い下がった。

「差し詰め恩賞奉行でございましょう」

「…と申さば、安達泰盛どのでございますか」

「まさか、お手前は城ノ介どの(安達泰盛のこと)に直訴されるおつもりか」

いかにも、と季長はいう。

「別に恩賞だの褒美だの、左様な浅ましきものではないが」

それがしの一番手柄を鎌倉にお認めいただきたいだけのこと──という旨を季長は披瀝した。

「…お話の向きは承った。なれど公事(裁定のこと)は時がかかり、それなりに証となる文や物も、揃えねばならぬ」

それまでこの屋敷にて逗留されるがよかろう、と行藤はいった。



「いったい殿は、いかがなさるおつもりでございますか!」

行藤の人の好さに、藤子は腹立たしかったのか、目をつり上げて詰め寄った。

「よいか藤子」

これはまつりごとの災いなのだ、と行藤は諭すような口調になった。

「…まつりごとの災い?」

「例えば地震や大雨で人が命を失うは、これは天災で致し方のないところもある」

されど、と行藤は続ける。

「人が人によって虐げられ欺かれ、それを何とかしようにも沙汰も受けられぬとあっては、それは天の災いに非ず、まつりごとの災い、すなわち人が作る災いに他ならぬ」

「なれどそれは他人のことゆえ、関わってはならぬのでは…?」

藤子は眉間にしわを寄せた。

「藤子の申し分も一理あるが、それが積もれば幕府は信を失い世は乱れ、異国に攻め取られるのが目に見えておる」

それだけは防がねばならぬ、と行藤はいった。

「まつりごとの災いは、防ごうと思えば防げる。我々まつりごとに携わる者は、防げるものは有らん限りの力を尽くし災いを防ぐのがつとめであろう」

藤子は不満げであったが、

「…承知いたしました」

といった。