連署や引付頭人など様々な部署で欠員の出た幕府は、新たな陣容を整えることとなった。

有力御家人の一族から中枢部へ人材を迎えたのも、北条時宗の発案である。

引付頭人の金沢実時は変わらないが、長老格には佐介時盛、評定の座には千葉頼胤、宇都宮景綱、極楽寺業時。

さらに朝比奈にある後詰の砦を足利家時に任せ、かつての三浦一族の佐原頼連を、北条時輔亡き後の伯耆国守護に登用。

すなわち。

ほとんどが北条政村が目をつけていた、過去に北条と確執のあった一族の出身の武士たちである。

満座のなか時宗は、

「ご一同に申し上げたきはただひとつ、これから異国との戦もあり、何が起こるかは誰も分からぬ」

それゆえ──と時宗は続ける。

「やれ北条だ何だと争うておる場合にあらず、ここは一致結束し、われら日ノ本の侍の魂を異国に見せつけようではないか」

といい、高々と宣言したのである。

中でも。

京にいる赤橋義宗のおじの塩田義政を連署に抜擢する人事は、驚きをもって六波羅に伝えられた。

「それではどなたが、年若い探題どのをお支えいたすのだ?」

当の義政は不安感をぬぐえなかったが、

「行藤どの、甥のことをよろしくお頼み申す」

義政はいった。

「連署とは執権どのも、そこまで」

義政どのを頼りにされておられるのでありましょう、と行藤はいった。

「義宗も兄上(極楽寺時茂)のように、心労が祟らねばよいが」

何とも後髪を引かれるような思いで、鎌倉へ下向していったのである。

六波羅は再び穏やかな日々がひさかたぶりに戻って、文永十一年は明けた。

その頃。

熙子が去った肥後は水害により前年の米に始まった、大根や豆、雑穀などの不作が、喫緊の課題となっていた。

とりわけ深刻な阿蘇では、菊池武房のもとに近隣から在郷の武士が集まり始め、善後策の協議に追われはじめている。

「このままでは、異国警固の役目が果たせませぬ」

堰を切ったのは、つぎはぎだらけの直垂に漆の剥げた太刀を佩いていた竹崎季長という若者で、二階堂行藤と同じ寛元四年生まれである。

「いっそ異国警固を鎌倉の方々に来ていただき、つとめていただくのは、どうであろう」

元来、九州には宋や高麗と交易し、外国と仲良く付き合ってきた者もある。

「それを蒙古が攻めて来るからとて、我等が異国と戦をすると決めたわけではない」

一方的に鎌倉で勝手に決めたのだから、鎌倉の武士が警固を果たすのが筋道であろう──と竹崎季長はいうのである。

竹崎季長の一つ歳上の菊池武房は戸惑った。

(気ままなことを申しよって)

これだから無足の御家人は気楽で困る、といった顔を武房はあらわにした。

そこへ。

進み出たのは、井芹秀重という八十五歳になる古武士である。

「竹崎どのの申し条も一理ある。我等は手弁当も持ち出しで、博多や太宰府まで自腹で路銀を出して、毎度詰めておる」

腹が減っては、戦にもなりますまい…とこの老武士はいうのである。

「どうであろう菊池どの」

異国と合戦が終わったのち、鎌倉に恩賞として今までの持ち出しを払っていただくのはいかがであろう…と井芹秀重は、白髯をなでながらいった。

「…確かにそうでもせねば悪党にでもなるより他なかろうて」

それもやむなきこと、と菊池武房は深い溜め息をついた。

「せめて食い扶持だけでも鎌倉に出してもわらねば、蒙古が金や米で釣って寝返らせぬとも限りますまい」

確かにその通りである。

「戦には金がかかるということを、お分かりいただかねばならぬ」

頼朝将軍の就任を三歳で迎えたこの老練な古武士には、座を鎮めるだけの説得力があった。



いっぽう。

肥後の話を聞いた鎮西奉行の大友頼泰は、

「左様な勝手をしてみよ、兵がばらばらになる」

といい司令官にあたる少弐経資(武藤資能の子)と、いわゆる金目当ての抜け駆けを一切鎌倉へは上申しない方針で一致した。

「下手に抜け駆けなんぞ認めてしまえば、鎌倉から何をいわれるか知れたものではない」

というのが共通した認識で、この辺りが菊池家や竹崎家のような在郷御家人と、大友家や少弐家のように関東から遣わされてきた武士団との、意識のズレでもある。

他にも。

鎌倉から御家人として認めてもらえない松浦水軍の佐志房(さし・ふさし)などのように、

「関東から動かぬ北条に、何が分かるか」

といった意見を持つ武士もあり、一枚岩ではない現況でもあった。



文永十一年五月、戦の慌ただしい空気が漂うなか、二階堂屋敷は相変わらず穏やかなもので、

「ここだけはさながら天上界やな」

と一条家経が冗談を飛ばしたぐらいであった。

初夏になって、二階堂屋敷では領国から植えさせた白躑躅が満開で、

「まるで夏の雪見や」

と気に入った通りすがりの公卿が、ひと枝もらい受けに来たこともあった。

が。

藤子には不満があった。

(もう少し武士らしく弓矢も射ていただかねば)

別に行藤が嫌いなわけではない。

学問に明るく、装束の組み合わせ方もセンスがあり、とりわけ左右で色を変えた直垂は洛中でも異彩を放つほどで、

──二階堂の片身違い。

と呼ばれ、真似する者さえある。

ところが…。

馬は度々騎るからか慣れたものの、弓矢は相変わらずおそろしく下手なままなのである。

(これでは合戦で討たれてしまう)

良い手はないか…と藤子はアクションを起こしてみることを、思い付いたのであった。



行藤が戻ると、矢場で袴を着けた藤子が、弓の稽古をしていたのである。

「急にいかがしたのだ?」

行藤は訊いてきた。

「戦の場で殿をお護り出来るよう、今から弓矢の稽古をいたしております」

殿は弓が下手でございますゆえ、と藤子はいった。

すると。

行藤は狩衣の片袖を脱ぎ、弓を引き始めた。

「さようアホなことを申すものではない」

行藤は苦笑いをすると、

「そなたを出陣させるわけにはゆかぬ」

女子(おなご)を出陣させたとあっては、二階堂の家の名にかかわる──と行藤は矢をつがえた。

「殿」

「…ん?」

「弦は肩で引かずに、肘で引きます」

藤子はいった。

「そうか」

いう通りに引いて射ると、的への精度が格段に上がった。

「…さすがは藤子」

縁あってわが妻に迎えたが今更ながら良い妻である、といい、

「われはそばに藤子がおればよい。よいか、側室は持たぬぞ」

行藤はいった。

すでにこのとき男子だけで三人もある。

「よいか藤子」

われは子らを出世させたいとは思っておらぬ、と行藤はいい、

「子らを鎌倉へ仕えさせるつもりはない。三人とも、地頭として平凡に終わらせるつもりでおる」

「なにゆえでございますか?」

「武士には捨ててはならぬものがある」

と行藤はいい、

「良き心を捨てず、強き者には負けず、理と義を忘れずにあらねばならぬ」

それが武士と申すものだ、と行藤は説く。

「ところが鎌倉へ仕えるとなると、己れが武士であることを捨てねばならぬことがある。友を斬り、みずから偽らねばならぬときもある」

誇りだけでは出世できぬのだ、といい、

「なれば子が苦しむのは目に見えておるゆえ、仕えさせるつもりはないのだ」

「…それはもしや、伯耆どの(時輔のこと)のあのことがあるからにございますか?」

「…そうかも知れぬな」

行藤は矢を放った。

真ん中を射抜いた矢は的を真っ二つに割った。



いっぽう…。

鎌倉は次々知らされてくる早馬の対応に追われ、文字どおりワタワタした有り様であった。

「つくらせておる船は九百艘か」

北条時宗はいった。

「鎌倉からもいくらか兵は出さねばなりますまい」

宇都宮景綱はいう。

「豊前のわが家来からの知らせによれば、砂浜で手薄な筑前は、気を付けねばならぬとの由」

「因幡あたりの浜から都を攻められたらどうする」

地図を前にして、安達泰盛の指摘は鋭い。

「そのために三浦党の佐原どのを伯耆に遣わしたではないか」

千葉頼胤はいった。

「京の守りはまことに若い赤橋どのでよいのであろうか…何とも心細い」

「六波羅の北方には二階堂行藤どのもおる」

そこへ数字に強い尾藤時綱が書き付けらしき紙を手にあらわれ、

「船の数から兵のおよその人の数が、割り出せましてございます」

仮に一艘四十人乗りとすればおよそ三万六千、漕手や舵取を含めれば四万ほどかと心得まする──と、尾藤時綱はいう。

「四万か…承久ノ戦の半分で良い、ということか」

頼胤はいった。

「時綱、九州には何万おる」

「騎馬は一万騎、雑兵を含めれば四万かと」

「…ならば兵は足りよう」

「えっ…」

安達泰盛は驚いた。

「まず初手は五分でよい」

「いかなる目論見か、とんと見当がつかぬが」

「まず五分で引き分けに、それで向こうが和議を申し入れればそれでよし」

「では、再び戦となった折は?」

景綱は問うた。

「そのときには、全国から兵を集めればよい」

硬軟を取り混ぜた、策謀の人でもあった、時頼の子らしい綿密な二段構えの策であった。