冷泉家への来訪以来、行藤は書庫にこもることが極端に増えた。

「六波羅への出仕の刻限にございます」

と藤子が呼びにやっても、気がつかないことさえあったが、

「うむ」

と要領を得ない返事ばかりで、何かを考え込んでいるようにも、藤子には見えるのである。

行動は六波羅の探題の屋敷でも変わらず、

「いったい行藤どのは、具合がすぐれぬのか?」

と、年若い赤橋義宗の後見として信州から出てきていた塩田義政(極楽寺時茂の弟)に、いらぬ心配をされてしまうほどであった。

が。

例の時輔の件から半年ばかり過ぎた頃、

「よきものが見つかった」

と、それまで眉間にしわを寄せていたのが嘘であったかのような、はじけた様子で藤子のいる庭に出てきたことがあった。

「いかがなされたのでございますか?」

当たり前だが藤子は驚いた。

「いや、思うところがあって」

いかがしたものかと思案をめぐらせていた、と行藤はいい、

「しかし良い目印を見つけたのだ」

と一冊の書物を手に、あたかもそれが金銀に勝る財宝であるかのようなキラキラとした目つきをした。

行藤が見つけたのは孟子の書物である。

「民を貴しとし、社稷これに次ぎ、君を軽しとす」

という実にデモクラシーの要素が強い文章があるこの書物は、古くより日本には入ってきている。

もちろん行藤も読んだことはある。

当然だがこの時代に社稷が国家を意味することを理解していた日本人は少なく、むろん藤子も、そんな深意までは知らない。

国家という概念すらない。

しかし。

行藤にはおぼろげながら、社稷たるものが六十余州の全てをあらわす、という意味に気づいていたふしがある。

(要は鎌倉だけが全てではない、ということやも知れぬな)

日本という、この六十六ヶ国の島を、無傷に治められれば、別に北条であろうがなかろうが、関係ないのである。

さすがに行藤には、ならば北条はいらぬといった思考の飛躍はなかったが、ただ北条が悪政を強いた場合、多少は抗っても間違いではないのではないか、と実感したのは、どうやらこの頃であったらしい。

少し時間はさかのぼる。

博多で空しく待った正使の趙良弼は、二月騒動ののち帰国の途に着いた。

建設中である大都へ帰国ののち、趙良弼は皇帝フビライに次のような内容の意見書を提出している。

「その民俗、狼勇にして殺をたしなみ、親子上下の礼なく、その地は山水多く、耕桑の利なし。人地を得るも益なし」

つまり日本を攻撃しても、手間のわりに実入りはないので意味はない、といったところである。

ところが。

皇帝フビライの視点はあきらかに違う。

──南宋と日本との交易を断たねば、南宋は倒れぬ。

という実利的な戦略の観点で、フビライの主眼は南宋の征討にある。

南宋を倒すには日本と引き離すことが、不可欠なのである。

南宋と日本の交易は、まだ平清盛が存命の頃、平家の一門が全盛を誇っていた時期から続いている。

それだけに。

容易に状勢を引っくり返せるものではない。

まず南宋と日本との関係にクサビを打ち込むべく送らせたのが、例の国書である。

「猶予に及べば兵を用いるに至る」

と敢えて武力による制圧もちらつかせ、補給線の脆さから、出来れば戦わずして優位に持ってゆく政治戦略でもある。

そこで。

高麗の三別抄の反乱という目の前の問題を片付けないことには、南宋を討伐するにしても話が進まない。

はからずも高麗の三別抄の蜂起は、実に想定外だが日本を利する結果となっていたのであった。

鎌倉では連署となっていた前執権北条政村の不例で、連署の公認の人選がすでに始まっている。

連署は執権に次ぐ立場だけに、得宗家は佐介家や極楽寺家からも幾人かの候補が上がり、京にいた塩田義政も、極楽寺家ゆかりの人材として名が上がった。

もっとも当の義政は、

「まだ探題どのが若いのに都を離れよとは、正気ではない」

と鎌倉の方針に、不快感を示した。

問題は、この難局に対して補佐に耐え得る人材がほとんどないのが最大の課題である。

そうしたなか…。

肥後の菊池家では、守護の名越時章の自害によって、阿蘇に滞在していた正室の熙子母子の扱いをどうするかの会議が連日、開かれていた。

長い論議ののち、

──まずは京の二階堂家へ送り参らせるのが、賢策である。

という結論となって、文永九年五月に菊池武房に異国警固の番役が任ぜられたあと支度の整うのを待って、熙子と篤時、さらに生まれて間がない子は、はるばる京へ向け出立したのである。



京へ着いた。

文永十年が明けた、正月のことである。

赤橋義宗に呼び出され不在であった二階堂屋敷では、藤子が出迎えた。

「この子は…?」

「あのときの子にございます」

前に対面した当時身籠っていた子は、今の篤時の弟である。

熙子はいう。

「時章どのは何の咎を以て、殺されねばならなかったのでございましょう」

「それは女子(おなご)の私には分かりませぬ」

藤子はいう。

「なれど教時どのが、得宗家に刃を向けたのは紛れもなきことにございます」

その責めを問われたのではございませぬか──と藤子はこたえた。

やがて。

行藤が戻った。

「熙子ではないか」

思ったより早く着いたな、といい家来に風呂の支度を命じた。

「兄上にうかがいたき儀がございます」

「…時章どののことであろう」

かぶせるように、行藤はいった。

「あれはな」

教時どのの巻き添えになってしまわれたのだ…と行藤は、同じく名越家と縁続きであった、足利家時からの情報談を聞かせた。ちなみに家時は祖母が時章の妹で教時の姉、家時本人の妻は極楽寺時茂の娘…という足利家の当主で、のちに室町幕府を開く足利尊氏の祖父にあたる。

家時によると名越教時は、平頼綱の成敗を目的として兵を挙げたのであるが、

「あれは得宗家に弓を引く腹積もりにございます」

と、話の摩り替えに遭ったところから、名越家の討伐となったらしいのである。

「それでは、時章どのは…何の咎もなく殺されたのでございますか?」

「そういうことになる」

だが──と行藤はいう。

「家時どのの書状によると時章どのは、かくなる上は申し開きも見苦しい…と」

そう仰せになられて、自刃されたとのことだ…と熙子に諭すように聞かせた。

「もともと時章どのは誇り高きお方ゆえ、たとえ罪がなくとも、言い訳なぞしたくはなかったのではあるまいか」

と歳上の義弟の心中を慮ったのである。

ふと。

藤子は熙子が、涙を流していることに気づいた。

が。

熙子は泣き崩れる様子も見せず、

「そうでございましたか」

とどこか気の曇りの晴れたような、安堵の様子をうかべた。

「時章どのみずからがそうされたのであれば、わたくしには何の異論もございませぬ」

気丈に熙子はいうのだが、それが藤子には痛々しいばかりであった。



作事が始まった。

「人が増えると、屋敷も手狭よのう」

行藤と藤子の間にも、このときすでに、三人の子がある。

「五郎(篤時の弟)の首が据わるまでは、京におる方が良い」

と行藤は、隣の空き屋敷を買い取って作事で塀をこぼち渡り廊下を繋ぎ、綺麗に整えさせた新しい屋敷に、熙子と名越家の子を住まわせた。

そこに。

作事の終わった四月の末、博多の謝国明が二階堂屋敷をひさびさに、訪ねてきたのである。

「長らくご無沙汰しておりまする」

と謝国明は、宋や高麗に渡ったときに得た情報を話しはじめた。

「まずは高麗が蒙古の手に落ちましてございます」

高麗で反抗を続けていた、三別抄の叛乱が終に鎮圧されたのである。

ついで間もなく南宋も主力軍が立て籠っていた襄陽が陥落し、これで日本への侵略に対する障害は、ほぼ取り除かれた…といっていい。

「鎌倉は相変わらずでございますかな?」

「いや、これが」

執権が政村から時宗に変わって以降、蒙古との合戦に備えろ、という方針であることを行藤はいい、

「その大方針に背いた時輔どのは、時宗どのの討手に討たれ申した」

「時輔どのが…?」

行藤は頷いた。

「幕府に断りなく、朝廷と和議を画策したという罪だそうだが」

「どうやら時宗どのは腹を決められたようじゃな」

「そのようでございます」

行藤は淡々といった。

「…どうやらそれがしも、博多を離れたほうが良いかも分かりませぬな」

謝国明は長い息をついた。



鎌倉の幕府でも、決戦に対する準備は一応は整えており、九州の守護、地頭が質入れした土地を棒引きの形で借上という金融業者から返還させる、徳政令という命が出された。

さらに。

九州の守護、地頭、御家人には異国警固番への専念を念頭に、九州を無断で離れることを禁止している。

こうした対応を病の床から取り仕切っていたのは、六十九歳になった連署の北条政村である。

五月。

政村は方々に使いを出し、今後についての引き継ぎを始めたのであるが、

「時村と宗政どのをこれへ」

と実の倅の北条時村と、娘婿の北条宗政(時宗の弟)を相次いで呼び出した。

「そちたちには会うてもらいたき人がおる」

というと、机にある箇条書きの紙を示し、

「この方々の力がなくば、鎌倉は切り回せぬ。しかと会うて参れ」

と静かにいった。

で。

いわゆる政村のリストを手に、時村と宗政はまず、佐介時盛のもとへ赴いた。

「腹は空いておらぬか。まずは湯漬けでもまいれ」

と七十五歳の佐介時盛は、快く出迎えてくれた。

「左京どの(政村のこと)はこの時盛をそこまで頼みにしておられたか」

この激しやすい好々爺は、年若い二人を前に、

「命の限り、この鎌倉を守り抜いてみせるわい。この時盛に任せておけ」

と年甲斐なく、気焔をあげた。

次に。

訪ねたのは極楽寺家の四男の極楽寺業時である。

日頃は目立たない、和歌や学問に明るい極楽寺家には珍しい武辺なのだが、どこの派閥にも属さず、いわば中間派、といっていい。

業時はしばらく目を閉じていたが、

「この業時でよければ執権どののお役に立てるよう、合力いたします」

と快諾をしてくれた。

難題は、松下禅尼である。

(松下禅尼さまか…)

他ならぬ宗政の祖母でもある。

後年「徒然草」に賢婦人として記されたこの人物は、いわば幕府の精神的な柱でもある。

甘縄の松下禅尼の屋敷まで辿り着くと、驚くべきことに松下禅尼は、門に時村を待たせ、宗政だけを招じ入れたのである。

当たり前だが宗政は疑問を禅尼にぶつけ、

「なにゆえ禅尼さまは」

時村どのを招かなかったのか、と問うた。

「そなたはまだ若い」

まだこの鎌倉の恐ろしさに気づいておらぬようゆえ、申しておく──と、冷静なこの禅尼はいう。

「政村どのは味方も多いが敵も多い。子の時村どのが来たことで、頼綱のごとく痛くもない腹を探る輩も出るやも知れぬ」

今は異国との戦もあり、付け入る隙を作るときではない、と宗政に諭すような口調で松下禅尼は語りかけた。

「そなたは時宗を支えねばならぬ。迂闊なことをしてはならぬ」

宗政は深々と頭を下げた。

政村はこれを聞いて、

「松下禅尼さまは相変わらず厳しいのう」

と苦笑いを浮かべた。

が。

「ま、宗政どのがおれば、心配はなかろう」

とのみいい、政村は納得した様子であった。

そのあとも足利家時、千葉頼胤、三浦一族の佐原頼連…と実に政村らしい着眼点で、リストに選ばれた武士たちへ挨拶に行かせ、

「こうしたことが一大事にいざ鎌倉となるのだ」

日頃から繋がりを絶ってはならぬ…と若い宗政と時村に政村は、極意に近いものを伝えたのであった。

政村が大往生を遂げたのはその日から間がない、二十七日である。