余りにも騒々しかった文永八年も暮れようとしていた頃、

「極楽寺の探題どのは時輔どのが手をかけた」

という流言が流れていた。

根も葉もない話だが、人は意外に簡単なまでに風説を信じてしまう。

その風聞を聞いた行藤は下問してきた赤橋義宗に、

「噂なぞ捨て置かれるが、よろしゅうございましょう」

と、明確に答えた。

「酒の席で倒れたゆえ一服盛ったと思うのがいても、それは無理からぬこと。噂は見てきたような嘘をつくものでございます」

気にするには及びませぬと行藤はいうのである。



いっぽう。

鎌倉の名越教時と平頼綱の確執も、ここへきて顕在化し始めていた。

名越家の家来と得宗家の家来は昔から不仲ではあったが、例の評定事件のあとは特に家来どうしの喧嘩沙汰が増え、このままでは合戦になる…と荷物をまとめて逃げる商人まで、あらわれはじめている。

文永九年が明けた。

正月、名越教時は伊勢の神宮への参拝を名目に鎌倉を離れ、長年の宿願であった伊勢参詣を果たしたのち、上洛し六波羅へと立ち寄っている。

目的は赤橋義宗に会って、京の動向を探るためであったが義宗は不在で、代わって応対したのは番役の安達頼景ひとりであった。

仕方なく教時は南方の時輔のもとへ新年の挨拶をしに赴いたのである。

が。

これを冷泉家の家司が目撃しており、冷泉家から関東申次を経て、幕府へ通報がなされたのである。

果然、頼綱は名越屋敷を探索したが、何かが出るわけでもなく、当たり前だが空振りに終わっている。

そこへ。

名越教時が鎌倉へ戻ると、あちこち屋敷に荒らされた痕が残されてある。

家来から詳細を聞いた教時は、

「正月の挨拶に出向くだけで、このような仕打ちを受けるとは…!」

とメラメラ怒りが沸き上がってきていた。

さらに。

「得宗家に兵が集まってきております」

との注進がきた。

「…かくなる上は、頼綱を討ち果たさん!」

と兵を集めるよう、ついに教時は下知をくだしたのであった。

二月になると市中は騒然としていた。

得宗家や頼綱の屋敷、名越屋敷の界隈は兵がたむろしており、いつ戦が起きてもおかしくない戦況である。

こうしたなか名越時章は、教時に翻意をうながすべく何度か使いを出したのだが、

「いかに兄上でもこれだけは引けぬ」

武士の面目である、と教時はいい、時章はついに説得を断念したのであった。

縁者の足利家時も和睦の交渉に出向いたのだが、

「足利家に迷惑はかけられぬ」

といい、数騎の護衛をつけ丁重に送らせた。

二月十一日。

この日、頼綱は名越屋敷に総攻撃を命じ、数百騎もの軍が名越屋敷に押し寄せてきた。

教時は地面にあちこち太刀を刺し、一振ササラのようになると抜いて打ち合い、次々と薙ぎ倒してゆく。

「われこそは名越教時、討って功名にせよ!」

そうはいうが気迫に圧されなかなか組み打ちまでゆかない。

その時。

流れ矢が、教時の眉間に命中した。

しばらく固まったままであった教時は、仰向けに倒れた。

動かなかった。

慌てて雑兵どもが首をかきに、打刀を抜いたのであった。

その頃。

兄の時章の屋敷も取り囲まれていた。

囲まれた、と悟った時章は説得に来た二階堂家からの使いに対し、

「かくなる上は申し開きも醜いだけである」

といい、使いを丁寧な対応で帰したあと、屋敷に火を放ち、持仏堂で自害したのであった。

行藤がそれを聞いたのは、三月になってからである。

二月十一日の名越教時討死は、早馬で六波羅に知らされた。

この前夜、洛中では幾つか火事が起きており、六波羅ではその対処に大わらわの有り様であった。

行藤も鎧姿で、探題屋敷に詰めている。

注進がきた。

「南方の時輔どのに動きがございませぬ」

洛中の火事は六波羅はともに臨時の態勢で望むのが、通例である。

「このぐらいの火事であれば、疾うに気がついてもよいのではないのか」

赤橋義宗は、寝不足からかイラついている。

「まあそう焦らずとも、ひとまず時輔どのに使いを立てましょう」

行藤は使いをやった。

探題の屋敷は向かい合っており、いわば小路を挟んですぐである。

使者が門前に立った。

その刹那。

ヒョーッ、と鏑矢が飛んできた。

次の瞬間。

「鏑矢じゃーっ!」

鏑矢の音は開戦の合図でもある。

なぜ、しかもどこから鏑矢が飛んできたのか、全くわからない。

が。

鬨の声は上がり、戦いはすでに始まっている。

使者が戻ると、

「鏑矢にございます!」

転がるように慌てて駆け込んできた。

「南方のか?」

「…わかりませぬ」

急いで軍勢を止めよ、と行藤は命じた。

しかし。

現場は狭いだけに大混乱で、どんどん武士たちは南方の屋敷に、なだれ込んでいる。

向かいどうしで乱戦模様になっており、

(これでは身動き出来ぬ)

と行藤は、事態の推移を待つしかない。

再び注進がくる。

「南方は屋敷に火を放ったようにございます!」

ますます行藤は訳がわからなくなっている。

行藤は門の櫓に登り、様子を窺ってみた。

どうやら南方の屋敷はほとんど人はおらず、動いているのは、赤の袖印をつけた北方のようであった。

(なぜ人がおらぬ)

南方にも北方と同じく番役がいるはずである。

(どうなっておるのだ)

すると。

「北条時輔どのとお見受けいたす!」

という大音声がした。

見ると、ボロ雑巾のように斬られて袖の破れた、直垂姿の時輔が見えた。

急いで行藤は櫓を降り、屋敷へ駆け入った。

中では時輔と北方の手勢が睨み合っている。

「時輔どの!」

なぜかような仕儀となったか、と行藤は訊いた。

「行藤どの、知らぬのか」

「なにがじゃ」

「昨夜の火事、みな時宗の仕業ぞ」

行藤は言葉を失った。

「わしは見たのだ」

得宗家にいた者が火をつけるのを、といい、

「それとさっきの鏑矢は、義宗どののところから放たれたのを見ておる」

行藤はもはや頭が真っ白になっていた。

「行藤どのは何も知らぬゆえ、申しておく」

というと、

「わしは時宗から命を狙われたのだ」

といい、力なく笑った。

わしには長きにわたり願いがあった…と時輔は続ける。

「出家して静かに暮らすのが夢であった。だか母上はわが出家を許さず、つねに時宗と比べられてきた」

もはやわしに生きる道はない──といい、

「最期の願いがある。行藤どの、わが首をはねよ」

北条の者にはねられるよりかは、貴殿ならば恨みには思わぬ…と時輔は座り込んだ。

「…ご無礼つかまつる」

行藤は回り込んだ。

「貴殿のように、欲も得もない御仁にまみえることができたのが、ただひとつの救いであった」

太刀を抜いた。

息を整え、

「…では」

とのみいうと、目を閉じて時輔のうなじに太刀を振り下ろした。

顔にしぶきが飛んだ。

行藤が目を開くと、時輔の首が足元に転がっている。

全身には、返り血を浴びている。

ようやくそこへ赤橋義宗が馳せつけた。

「行藤どのがはねたのか」

「…いかにも」

行藤はへたりこんだ。

郎党が行藤を抱えあげ、時輔の首を携えると引き上げが始まった。

行藤は放心のままであった。

早馬で北条時輔の首級は鎌倉へ送られた。

で。

時輔の首実検で幕府に呼び出され、鎌倉へ着いた行藤は、名越屋敷が焼けているのを見て、そこで名越時章が自刃した事実をはじめて知った。

侍所の白洲に据えられた首は三つ。

北条時輔、名越時章、名越教時である。

「貴殿を呼び出したのは、他でもない」

これが本物の首か改めてもらいたい、と安達泰盛はいう。

「どれも、間違いございませぬ」

「よく改められよ」

一瞥しただけで分かるのが縁ある者というものでございましょう、と行藤はいった。

「面当てか?」

「真実にございます」

にべもない口調に、一座は固まってしまっている。

首実検ののち。

全体的に行藤を、腫れ物にでもまるで触るかのような態度の御家人が鎌倉で増えたのは、間違いのない話である。

そんななか。

驚くべきことに行藤は幕府の許可を得ずに帰洛したのである。

「あのような町にいても、腹が立つだけで何の利益もない」

と行藤は、したたかに放言した。

京へ戻る頃には当然ちまたの話の種になっており、

「そのようなことをされて、万が一のことが起きたらば、いかがなされるのでございますか」

と藤子も、さすがに心配になった。

が。

「駄目なときは何を尽くしても駄目なもので、裏を返せば、無難なときは何もせずとも無難なものよ」

大事ない──と行藤は平然たるものであった。

当然、平頼綱からは、

「厳しく罰しなくては示しがつきませぬ」

という声が上がったのだが、時輔の首を上げたという手柄がものをいうかたちで、行藤は半月ほどの謹慎に処せられただけで、何の罪科にも処せられなかったのであった。

謹慎があけた。

動静を気にかけていた、という為家卿から、

「たまには夫婦ふたりで来りゃれ」

と夫妻で呼び出されたのは、藤の満開になりはじめた頃である。

「よう参られたの」

為家卿は挨拶もそこそこに「蔵に見せたき物がある」と、行藤と藤子を蔵へ案内させた。

蔵の戸を開けた。

中には、御子左流の累代が集めたであろう書物がうず高く積まれてある。

「そなたたちに見せたいのはこれや」

と出したのは、一冊の本である。

「一体これは…?」

「父の日記や」

いうまでもなく為家卿の父は、かの百人一首で著名な藤原定家である。

藤原定家の日記。

すなわち現在の「明月記」がそれにあたる。

ついでながら明月記は資料の少ない鎌倉時代にあって、貴重な文献の一つと平成ではなっている。

それはいい。

為家卿がその一冊を開いて、指し示した文がある。

そこには、

「世上、乱逆追討、耳に満つといえども、これを注せず。紅旗征戎、吾が事に非ず」

とある。

たとえどのような合戦が起き、巻き込まれるようなことがあっても、われ関せず…と決然と、定家は書いているのである。

「これだけの覚悟があれば、世の中は渡ってゆけるということやな」

為家卿はいった。

確かに。

われ関せず、と独立独歩の道を歩むのには、おのずと覚悟が要るであろう。

「ただなあ、どのような合戦にも振り回されずに、おのが心を貫くということほど、覚悟の要ることも他にないで」

と為家卿は、諭すような調子でいうのであった。